2010年7月29日(木)  レッスン

一週間ほどの間に3度も医師に診てもらった。命に関わるような病気やケガではなく、しかし見過ごせなかった。ひとつは来月はじめに手術をすることになった。手術といっても、30分で終わり日帰りだ。

昨日行ったのは、この辺りで一番大きい総合病院で、何かと世話になっている。その日、ぼくを診てくれたのはたまたま院長先生だった。とても穏やかな人で、こちらの話をよく聞き、インフォームド・コンセントも的確だった。診察の終わりにぼくは礼を述べた。診察の礼ともうひとつ、2年前のコンサートについての礼である。
一昨年、その病院は創立100年を迎え、それを記念して市のコンサートホールで演奏会が開かれた。かみさんが応募して当選し、ふたりで歩いて出かけた。ベルリン・フィルの現役と元奏者たちのヴァイオリン、チェロの三重奏である。久しぶりにそんな音楽に接したのが地元で、なおかつ良かったのだ。清々しい気持ちで帰った。

4年前、ベルリン・フィルのコンサートホールを訪ねた。その建物はシドニーのオペラ・ハウスのように、遠くからでもすぐにわかる。オペラ・ハウスが海を控えるようにあるとすれば、ベルリン・フィルはドイツの黒い森ティーアガルテンを傍に控えている。
建物は例えようのない複雑な形をしていた。強いて言えば折り紙細工の王冠のようなシルエット。ちなみに建物は金色の金属バネルで覆われている。世界に君臨したカラヤンとベルリン・フィルを象徴しているかのように。
内部見学のツアーに申し込み、各所をじっくりと見てまわった。舞台が建物の中央に位置する独特の構造は、確かこの建物から始まったのではなかったか(日本のサントリーホールはこのミニ版だ)。舞台の後ろにも客席がある設計は音楽のホールならではだ。視覚を伴う芝居などのホールでは正面性が重要視され、セットや照明の事情もあり、その上、客は後ろから見ることなど欲しなかった。しかし音楽は後ろにも届くという発想だ。そして後ろの席からは指揮者の表情が正確に読み取れる。おそらく音響設計は考え抜かれたはずだ。ホールで音楽は聴いていないが、帝王カラヤンの時代の産物だから想像がつく。
客席の椅子の造りにさすがと思った。長時間座り続けても疲れないことを模索したと思われる形状で、生地も高級そうだ。前の椅子との間隔も十分にあり、こういうところにもコンサートホールについての思想が読み取れる。天井の音響反射板はその言葉通り機能のために存在するのだが、それはコンテンポラリーアートに見えた。

そんなことを思い出した昨日の深夜、たまたまテレビをつけたら、NHKの教育放送で「スーパーピアノレッスン」をやっていた。再放送をまとめて流しているらしく、その日は「シフと挑むベートーベンの協奏曲」というタイトルだった。ピアノなどまったく弾けないのについ見てしまうには理由がある。「プロ」と呼ばれる人の所以を、まさに感じることができるからだ。

その日、レッスンを受けていたのは、バッハ・コンクールなどいくつかのコンクールで優勝した若いロシアの女性だった。彼女の演奏は素晴らしかった。素人にはそう聴こえる。ところが先生はこうしろ、ああしろとケチをつける。それが単なるケチでなく、本質を突いていることは瞬時にわかる。
というのも、先生が同じ箇所を手本として弾いてみせる。その短い断片だけで、すぐにわかるのだ。同じ譜面を同じピアノで弾いているにもかかわらず、流れる曲がまったく違う。もっと正確にいえば、最初の一音だけで違いがわかってしまう。先生と生徒では音の質が見事に違うのだ。一音だけでも違うのに、断片を弾けばどうなるか。曲のすべてを弾けばどうなるか。
テクニックだけの問題なら、テクニックを磨けばいい。しかし音楽がそれだけで成立しないことは誰でもわかる。テクニックは素晴らしいと言われたピアニスト予備軍が、その後ピアニストになれなかった事実は多い。
その番組は、有名ピアニストたちがプロ予備軍を生徒に見立てレッスンする様子をそのまま流している。その日の先生、シフとは、アンドラーシュ・シフ。ベートーベン演奏の巨匠らしい。
密室で行われてきたピアニストのレッスンを、テレビで見せてしまうという手法はこれまでなかった。しかも、「スーパー」とうたわれているのは普通ならレッスンなどしない巨匠たちだからだ。芸大や音楽大学でもレッスンは奥義の伝達として個人対個人の領域で、秘技としてベールに包まれてきた。それはレッスンを受けた者しか知らない世界だったのだ。
有名ピアニストになればなるほど、直接教えを受けることは難しい。受ける側の資質が問われるからだ。つまりヘボな生徒など相手にされないということだ。教えを受けられるということが、才能あることを意味している。教えられる側が優秀だから、この番組は成立している。月並な生徒なら適当な先生で十分である。

ピアノに限らず音楽はそうして才能を見いだし、育み、伝承されてきた。そういう大きな流れでみれば、異才、天才と呼ばれる人も確実にそうして生まれた。美術の世界も似ている。
ただそれが、すべてに共通するか、すべてのジャンルにあてはまるかというと、そうでもあり、そうではないという部分が見えてくる。

(この項、続きます)



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