2010年7月23日(金) 傘の日

わが家のリビングは2階にあるから暑い。この三日間は36度Cを超えた。それでもエアコンを入れないで過ごしている。慣れれば何とかなるものだ。ただ、じっとしていればいいのだが、例えば金属加工の仕事などで体を動かしはじめると、さすがに汗が滴り、目に入る。リビングはまだいい方だ。3階の物置に上ったら42度だった。用があったから、しばらくそこにいて、その温度を堪能した。そういう機会はなかなかない。
腸炎に懲り、あまりにも冷たいものを避けている。冷蔵庫を開けるのを控えているが、それでも冷たいものがなければ凌げない。

今年の梅雨は荒れ、西日本に大きな惨状を残した。その片付けも終わらないうちに、この猛暑では被害を受けた人たちはたまらないだろう。
地球の各地で天候の異常が起きている。ロシアでは暑さと大干ばつで作物が大きな被害を受け、ドイツも鉄道が止まるほどの暑さに、車内で意識をなくした人が担架で運ばれていた。中国では水害で多大な死者が出た。片や南米を寒波が襲っている。ボリビアではこれまで雪など降ることがなかった町に大雪が降り、大混乱である。
5年ほど前、やはりヨーロッパが猛暑になったとき、フランス人から届いたメールには気温が40度で死にそうだ。夜になってから仕事をしていると書いてあった。
一般的にヨーロッパの夏は涼しい。地中海沿岸の国々を除けば、夏の最高気温はせいぜい20〜25度(北欧は20度にもならない)。家にも車にも冷房がなく、そんな国が30度を超える気温になると、暑さに慣れていない人々にはたまらない。日本では考えられないほどの死者が出る。人々が暑さの対策を知らないからだ。

学生減のあおりで、写真学校のぼくのゼミがなくなって今年で2年目になる。3年前までは、毎年この日は長崎にいた。7月20日に東京を発つ4泊5日のゼミ合宿だった。
今年の東京は梅雨が早く明けたけれど、例年なら出発するときはまだ梅雨である。ところが飛行機を降りると今日の東京のような晴れが待っている。ほとんどの学生が長崎を初めて訪ねると言い、その興奮と青空のせいか、毎年、長崎空港で彼らは必ず言ったものだ。
「九州はやっぱり暑いですね!!!!!」
そしてカメラを持って街を歩き始めると、その言葉をますます連発した。
東京で一日中炎天下を歩き回るような生活を彼らがしていないことを知った。こんなに毎日毎日写真ばかり撮るのは初めてだ、というのだ。写真学校の学生が何をほざいているのかと呆れた。しかしそれが現状だった。
確かに九州は東京よりも空気が澄んでいるから夏の日差しは強い。ただ、気温はほとんど同じだ。長崎は海が近いから風があり、東京よりも涼しいほどだ。
羽田に帰ってきたとき、学生たちはそれを実感する。東京を覆っていた雲はとうに消え失せ、ガンガンの夏が始まっている。でも学生の記憶には長崎の暑さが確実にインプットされている。炎天下で毎日毎日写真ばかり撮る生活が東京で存在しなければ、長崎の日々を凌駕する暑い夏はないだろう。

夕立でも来ないだろうか。そんなことを考えていたら、梅雨の日のことをいくつか思い出した。

最近は歩くことが不足している。夕食後、かみさんと散歩に出かけた。空を見ると雨が落ちて来るかもしれず、それぞれ傘を持った。30分ほど歩いていたらやはり雨が来た。もうすぐ家という場所に参議院選挙のポスター掲示板があり、気味が悪いほどの候補者の計算された笑顔は、暗い中で一段と嫌みを増していた。それらの顔を一人ずつあらためて吟味していた。
「すみません」
そのとき、後ろから女の声がした。振り返ると、手にクリップボードのようなものを持った若い女が立っていた。投票依頼か、何かのアンケートか、アンケートを装った新手のヤバい商売か。
「○○駅への道を教えて下さい」
安心したから丁寧に教えた。再び家に向かって歩き出したとき、彼女が傘を持っていなかったことに気がついた。10分も歩けば駅である。しかし彼女が道を間違えて彷徨うことも、雨足が強くなることもあり得る。まだそれほど遠くへ行っていないと思われる彼女を、近道をして追いかけた。
「この傘をあげる」
「それほどひどい雨ではありませんから」
固辞する彼女に、ボロ傘だから必要がなくなれば、捨ててくれればいいと言って押し付けた。話の途中で彼女が日本人でないことに気がつき尋ねると、台湾人だった。
若い頃ならこんなことはしない。ナンパと間違われるのが嫌である。
すぐ先の信号で道順の最後の指示を出し、かみさんと相会い傘で家に帰った。

ワークショップを終わる時間に雨になっていることがある。そんなとき、去年までの塾生たちに何度か傘を貸した。貸したといってもビニール傘だから返さなくてもいいといつも言う。彼らは借りるときに礼を言っても、後日、あのときは助かりましたなどと誰一人からも言われたことがない。メールで簡単に礼を言える時代だというのに。
傘が100円で買える時代になると、人情というものも軽んじられるようになるらしい。
その昔、傘は高価だった。しかし傘が高価だから、借りた人は感謝したのではないだろう。

かみさんが会社から帰宅する時間に空が暗くなった。二本の傘を持って家を出ると雨はすぐに落ちてきた。台湾人と別れた信号まで行ったときは大降りである。急激な天候の変化に、傘をささない人が圧倒的だ。信号待ちをするぼくの前に、白髪のお婆さんがスーパーの袋を両手に下げて立っていた。ぼくは後ろからその人に傘をさしかけた。
信号が変わっても、そのまま遅い歩調に合わせてすぐ後ろを歩いていった。他人が見れば親子だと思っただろう。200mほど歩いたところでその人は右折した。一瞬迷ったが、傘のさしかけはそこで終止符を打った。その道は駅に向かうぼくのルートから大きく外れていたのだ。
お婆さんは、ある地点から雨に濡れ始めた突然の変化を不思議に思う素振りもなく、傘に打ち付ける雨音が止んだことにも気づかず、相変わらず淡々と歩いていた。ぼくの存在をまったく知らないまま。

透明人間になったような感覚が今も残っている。



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