2010年7月10日(土)  見る (続・美術館の光)

光の意識が違う。
ロスコとニューマンの部屋は、設計の基本が他の展示室とあまりに違っているのが不可解だった。

やはりと思ったのは、美術館の配置図を見たときだ。美術館全体は飛鳥寺院のように廊下で繋がる構成になっている。ロスコとニューマンの部屋も廊下で繋がっているのだが、その建物は、まるで奥の院のようにポツンと離れて建つ。つまりそこは後年の増築なのだった。
増築された建物は、美術の展示に造形深い人間が携わったと思われた。同じ建設会社が請け負ったとすれば、以前と違う人が設計したのだろうか。あるいは、まったく違う会社の仕事かもかもしれない。とにかく、ロスコの部屋とニューマンの部屋だけが別の美術館のようだ。

ロスコの作品を見ているとき、奇妙なことに気がついた。どう見てもおかしいから、ぼくは係の女性に尋ねた。
女性は驚き、ぼくの顔を真っすぐに見たまま、トーンを落とした声で話しはじめた。
「以前、同じ指摘をされた人がありました」
ぼくの指摘、いや以前の誰かの指摘は、とても的を射ていたらしい。その証拠に、その指摘に対して川村記念美術館は、ロスコ財団や、関係画廊に問い合わせ、綿密に調べ上げたそうだ。その結果、それでいいという結論に達したという。
「そこまで調べた結果なら、それでいいのですが」
とぼくは言い、その疑問になぜ思い至ったかを話すと、女性はぼくの顔から視線を外し、作品を見ながら言葉を返した。
「以前の方も同じことを言われました」
気がついたのは、ふたりだけなのか。

奥歯に物が挟まったような言い方を、本当はしたくない。しかし敢えてその「奇妙なこと」については書かない。ぼくはたまたまそれに気づいた。単にそれだけのことだ。

ぼくがアートを見るときの基本は、他の人と少し違っているかもしれない。

大きな作品の場合、部屋の中央に立って展示室全体をじっくりと見渡す。気になる作品があれば、そこに移動し、少し離れた位置で作品を見る。接近してディテールを見る。再度離れて見る。気になる部分があれば、また接近して見る。これを延々と繰り返すことがある。

あらゆる先入観を捨てて、できるだけ無心になる。
タイトルすら見ない。
作品から感じたことを大切にする。
たまに、これ何なの・・・という作品があると、仕方なくタイトルを見る。
そしてもし、自分の見方とタイトルとのギャップがあっても、言い換えれば、自分の見方と作家の考えが大きく違っていても、自分の見方が間違っていたと思わないこと。人は作品を自由に見るという特権がある。
もちろん、作家には作品に対する自分の考えがある。しかしそれをわかることが作品を理解することではない。好きに見ていいのだ。それぞれの人の見方は間違いではなく、もしかしたら正しくないかもしれないけれど、それぞれの見方があるということだ。
見る人の数だけ見方がある。

ただ、例えば、それまで知らなかった作家の生い立ちや経歴、家族関係、時代背景、思考を知ることで、作品の見方が激変することがある。一般的な言い方をすれば、知識を得ることで見方が深くなるということだ。
ここで、またしても「ただ」である。
ただ、知識を得ることが、正しいとは限らない。知ることで却って見えなくなるものもあるからだ。なまじの知識は、本能を鈍化させることがある。
理屈をこね回す美術評論家の多言よりも、何も知らない子供の一言が真っ当なこともある。(子供の言い分がすべて正しいと言っているのではない)。

本能と知識は螺旋のように交わり、あるいは離反し、そして自分の見方を導きだす。
知らないよりは、知っている方がいい。しかし知っているという安住(先入観)は、ときとして人の目を眩ましてしまう。むしろ、知っていること(知識)がストレートにものを見ることに蓋をするというべきだろう。知っていると思った時点で、人は思考停止に陥る。思いめぐらすことをやめてしまう傾向がある。何か素晴らしいものを見ても、結局残るのは、見る前と変わらない貧相な先入観だけということもままある。
それは見たのではなく、先入観の単なる確認作業に過ぎない。見るとは何かを発見することだ。
「眺める」と「見る」はまったく違う。

近年、どこの美術館でもやっている学芸員によるフロア・トークに参加することなく、いつも冷ややかに見る。学芸員はこれが正しい、こう見なさいと答えを出しているように思える。アートを見ることに正しい答えなどないにもかかわらず。
見る人は自分で考えることが必要だ。
上澄みだけをすくい取るような知り方ではなく、学芸員の言葉のなかに、疑問を見つけるくらいの気持ちがあるならば、多くの質問を投げ返すことができるならば、そして聞くことからから思考が始まるなら、フロア・トークの参加を勧めたい。

ものを見ることは面白い。自分を知ることでもあるからだ。
見たものについて他人と話す時に気がつく。たまの非凡と、多くの凡庸に。



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