2010年7月6日(火)  美術館の光

その日は梅雨の合間の遠足日和になった。
行きたいと思いつつ、のびのびになっていた川村記念美術館へ6月24日にやっと足を運んだ。そこは現代美術ファンの間では聞こえた美術館である。他の美術館とはちょっと異質な、ぼくの好みの企画展が目についたから一度訪ねたいと思っていた。しかしそこは東京の郊外、千葉県の佐倉市にあり、東京都心を挟んで、わが家からまるで反対に位置するその場所が、長いあいだ鬼門となっていたのだった。
通勤圏だから、その辺りから毎日電車で東京に通う人は数多くいる。鎌倉と似ていると思った。鎌倉に住み東京で仕事をする人は多いにもかかわらず、東京の人間には鎌倉は小旅行で行く場所である。
佐倉はまったく知らない。長嶋茂雄がその土地の高校を出ている。江戸期に全国を測量をして正確な日本地図を作った伊能忠敬も確かその辺りの出身だ。近在にはキッコーマンの大きな工場があるはずだ。そんなことが頭をかすめるだけで、その土地に具体的なイメージはない。

しばらく車で遠出をしていないから・・・と考えたが、電車の方が安上がりである。しかも近年、歩くことを心がけているぼくたちにとって、電車は自然な選択だった。乗り換える度に電車の車内広告は少なくなり、しかもその数少ない広告はローカルな雰囲気を漂わせてきた。車窓の眺めは空が広く、緑が多く、人も車も少なくなった。そんな田園の風景は故郷を思い起こさせた。
東京近郊のどこでも見かけるような駅舎と駅前広場には何の感慨もなく、案内板を見て、「ああ、ここに歴博があるのか」と思った。「国立歴史民族博物館」。そこにもつい触手が伸びそうになるのを押さえ、「今日はコーネルだけ」と気を引き締めた。
そう、その日はジョゼフ・コーネルの箱を見に行った。

以前のNoteにコーネルのことを書いた。しかし作品を直に見たことはない。展覧会を知ったとき、妙な感情が交錯した。それはたとえば、メールを通して好意を持ちながら、でも、会ったことのない女と初めて対面するときにも似ていた。会いたいような、会いたくないような。
日本で16点もの作品が同時に見られるのは、おそらく初めてのことだろう。当然行かざるを得ない。
そうして、ぼくたちは2時間をかけて、佐倉という初めての土地を訪ねた。10名ほどを乗せた美術館の送迎バスは定刻を5分遅れで駅を離れ、都会でも田舎でもない中途半端な町並みを抜けると、トトロが潜んでいそうな森のある風景が続いた。美術館はそんな広大な緑の中にあった。

小径を歩いていくと美術館のエントランスが突然現われた。それは牧場のサイロの印象である。三角の帽子をかぶった円柱型の建物が隣り合ってふたつ繋がって建っている。中に入ると、天井高のホールとなっていた。三角の帽子部分を見上げると、天井には円形の幾何学的なオブジェがふたつあった。まるで折り紙細工のようにエッジが立って美しかった。よく見るとそれは照明器具らしく、そのせいでエッジがいっそう立って見えるのだ。
「惜しいね」とかみさんに言った。
エントランスホールが本当に何もない独立した空間ならば、人の視線は自ずとその美しい天井に向かう。外から入ってきた時に、なにか得体の知れない荘厳な興奮があるはずだ。
しかし現実は、その一角に受付があり、受付の反対に位置する高い壁にはステンドグラスのようなチャチなガラスの入った数個の窓が穿たれて、人の視線や想いは拡散する。その窓のせいで、ホールは比較的明るく、しかも中庭が見える小部屋(?)に通じる別の開口部からも光が入ってくる。来客の多くは天井を見ることなく通り過ぎる。その日、天井を見上げたのは、ぼくたち夫婦だけだったかもしれない。
光を熟知している人間なら、こんな空間設計にしない。エントランスで、ぼくは少しガッカリした。

ドイツ、ベルリンの「ユダヤ博物館」が思い起こされた。5-6年ほど前の竣工当時、建築雑誌をにぎわせたと聞いた。ぼくたちはサッカーのワールドカップ・ドイツ大会の年に訪ねた。
灰色の鋼板張りの外壁、それを切り取ったような横長の窓が僅かにあるだけの外観。エントランスは地下鉄の入口のような小さな開口があるだけ。そこに入るといきなり狭い下り階段がある。まさに地下鉄の入口だ。その階段を下り切ると今度は狭く傾斜した長い通路が伸びている。それは途中で別の通路と鋭角的に交差する。そこはもう博物館だから通路の壁には展示物がある。通路の果ては、建物全体を斜めに貫くように構築された、長い上り階段へと繋がっている。まるで天空に至るかのように。地底から天空へ。それが建物のコンセプトなのか。
エントランスからそのメインの階段に至るまでの道程は、狭く長く、外界から遮断された重苦しい空気が漂う。複雑な構造の展示室では自分の居場所を見失う感覚に襲われる。来訪者は知らず知らずのうちにユダヤの歴史を感じ取るだろう。
例えば、建築とはそういうものだ。

コーネルの展示会場は暗かった。作品だけに光が当てられ、部屋全体を見渡すと、コーネルの箱は、漆黒の宇宙に浮かぶ太陽系の惑星のように点在する。もちろん太陽に該当する中心はなく、作品を等価に扱う展示である。個々の作品を見始めて気がついたのは、部屋全体が迷路のようである。しかし迷路でないのは、作品の間はすべてガラスで仕切られ、全体が見渡せるからだ。
「展示方法がいいです」。ワークショップの塾生・相原君がそう話していたのを思い出した。
ただ、作品への光のアプローチが悪い。照射角度の極めて少ないスポットライトが天井から当てられ、そのせいで箱の中の上部に影が生じ、ただでさえ暗い中で、見る者は作品のディテールを受け取ることができない。スポット(光源はハロゲン?)特有のギラギラする光の質も作品を見せるには不適当である。ここまでやるなら、徹底して最後まで煮詰めてほしかった。作品を見せるという本質を考えれば、こういう光にはならなかったはずだ。
「作家が作品を制作したときの光を復元する」
「作品が設置されていた場所の光を復元する」
「見る人の心を自由にする光」
いくつかの選択肢がある。とにかく作品にスーと入っていける。そういう展示を美術館に求めたい。
今ひとつ感動はなかった。光のせいなのか、16点という作品の数が実は少なく、見たかった作品の欠如の故か。コーネルの全貌を是非見たいものだと思った。ただ、コーネルの手仕事の痕跡は確認できた。
(高橋睦郎という人がコーネルの作品から受けた印象を言葉にして、それが一緒に展示されていた。ぼくは一顧だにしなかった。人は自身の見方で作品に接すればいい。見方が深いか浅いかはその人の資質である。自分の解釈を押しつけて欲しくない。ぼくのように嫌だと思う人はそれを読まなければいいのだが、ぼくはこの展示に疑問符をつける。)

数年前の近美の「ゴッホ展」や、MoMaを後にするときの興奮は残念ながらなかった。それはコーネルという人物の本質なのではないかと考えた。興奮はなくとも、コーネルはコーネルなのだ。とても好きだ。

その後、いくつかの常設展示の部屋をまわった。ステラやジャスパー・ジョーンズの作品も多くあったが、彼らの仕事を確認しただけだった。いささか古いなと思う。美術館の設計も帯に短し、たすきに・・・、という感が拭えなかった。川村記念美術館もこの程度かと思っていたら、圧倒された。
ロスコの作品である。しかもロスコの作品7点のためにわざわざ作られたその部屋は、確かに光の工夫がされていた。つまり、ぼくは光に対する不満を感じなかったのだ。その部屋では作品と直に向き合えた。美術館とはそういう空間であるべきだ。

次いで入った部屋では、言葉を失った。
入ったとたんに、尋常ではない雰囲気に呑まれた。理由がわからない。そしてわかった。こんなに美しい光に満たされた部屋に立ったことがない。
そんな空間を与えられた作品は本当に幸せである。ぼくはこの作家の名前と作品をそこで初めて知った。バーネット・ニューマン。
そこは彼のただ一点の作品のための部屋である。
作家冥利に尽きる。
白い部屋である。部屋の両側には横長の大きな窓があり、白いメッシュのスクリーンがかけられている。スクリーンを通して、柔らかい外光が部屋全体を包み込む。左の窓の外には三角帽子の屋根がうっすらと浮かび、右の窓には木漏れ日がスクリーンを揺らす。スクリーンに映る木漏れ日が、風を受けて微妙に変化するのを見ているだけでも美しい。
立体を見るには向かない部屋だ。平面作品だからこそ、その部屋の光が生きてくる。晴の日と雨の日では印象が違うだろう。それも体験してみたいものだ。
ロスコとニューマンの部屋は、光の構造がまったく逆である。それでいて、どちらも作品に向き遭うための部屋という意識は一致する。


復路は来たときと違う電車に乗った。駅までの道はこちらの方が愉しかった。旧市街を走り抜けたからだ。佐倉という土地を少し理解した。古びた京成鉄道の駅は好感が持て、乗客も東京とは違うおおらかさが感じられた。

重いコーネルの作品集をかみさんが買い、ぼくが持って帰った。新しく発見されたコーネルの資料が詰まっているというその本は、まだ見ていない。少し時間をおいて、たっぷりと想像しながら見たい。今はまだ、ニューマンの部屋の印象が強すぎる。

人の少ない季節に川村記念美術館を訪ねてほしい。ニューマンの部屋に身を置けば、きっと感じるものがあるだろう。



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