2010年6月26日(土)  トイレの夜

今月の初旬、2週間ほど飲んでいなかったコーヒーを飲んだとき、少しお腹の調子が悪くなった。何のことはない。下痢気味になったのだ。いきなり飲んだコーヒーは、胃腸にはちょっと刺激的だったらしい。
二日後に生ものを思い切り食べた。ご飯を酢飯にして、いくつかのタネで手巻き寿司にした。かみさんの会社でボーナスが出て、しかしこのご時世である。寿司屋に行くよりも安く、かえってうまいものが思い切り食べられた。
ところがその夜は胃が痛んだ。早めに寝るつもりだったのに、眠れない。胃炎や潰瘍のような痛みだったから、タケブロンを服用した。しかし痛みは激しくなり、仕方なく今度はブスコパンを飲んだ。夜半を過ぎ、気がつくと痛みは和らいでいた。ただ、あまりの痛みだったせいか、眠気は遠のいていた。眠くなるまで待つしかない。

1時間が過ぎても、2時間経っても、眠る気配にならず、そうこうするうちにサッカーのワールドカップ、フランスとウルグアイの試合が始まる3時半になった。見る気などなかったのに、その試合は格好の時間つぶしとなった。
ところが試合開始のホイッスルは、ぼくにとっては異変の始まりとなった。期待を裏切る生温いサッカーの試合とは裏腹に、ぼくのお腹は炸裂したのだ。3時間ほど前とは違う種類の痛みに襲われた。下痢の痛みである。あわててトイレに入った。
二日前のコーヒーのときとは明らかに違っていた。みそ汁のような茶色の水便しか出ない。しかもそれがネズミの鳴き声に似た音とともに一気にほとばしる。そしてすぐに何事もなかったように治まった。しかしそれで終わりとは思えなかった。
的中しなくていいことに限って、予想は的中する。30分ほどの間隔でぼくはトイレに通うことになった。サッカーを見つつトイレに行ったのか、トイレに入りつつテレビを見たのか。サッカーの試合は凡戦に終わったが、試合が終わってもトイレへの往復は終わらなかった。
完全に朝となり、そろそろかみさんが起きる頃、やっとベッドに横になった。しかしそれもつかの間、7回目の腹痛が始まった。ただ、永遠に続くように思えたトイレ通いは、それをもってようやく終止符を打った。

翌日は、体に力が入らず、亡霊のように過ごした。
その日は日曜で、かみさんがいたからポカリスェットを買ってきてもらって水分を補給し、昼はお粥を食べた。日曜だから医者に行けない。薬の引出しから腸炎の薬を見つけ出してそれを飲み、ただただおとなしくしていた。冗談がまったく出なかったらしく、静かでいいとかみさんは言った。
月曜になると、おならが出るほど恢復した。この感覚、猛烈な下痢を体験した人ならわかるはずだ。恢復の早さにかみさんは驚いたが、その一週間は、体に力がなく、頭も働かなかった。忙しさの山を通り越していなければ、もっと悲惨な一週間になるところだった。

生ものを当分食べることはないだろうと思いつつ、土曜に食べたものを検分するうちにふと気がついた。ほとんど同じものを食べたのに、かみさんはピンピンしている。どう考えても合点がいかない。原因は手巻き寿司ではないのか。

義父が他界して今月で一年が過ぎ、かみさんの母親と兄弟が墓参りをして法事を済ませた。ぼくは出席しなかった。その代わり、肉親の命日には、わが家でお経を唱えることを習慣にしている。いつも花と供物、そして線香を焚いて般若心経を唱える。
花はその夜まで飾ってあった。しおれかけていたから、ゴミ箱に入れ、水を捨てた。水を換えていたのに、このところの暑さのためか強烈な匂いが漂っており、花瓶をいつもより丁寧に洗った。かみさんが寝た後だから、夜半前のことだ。
花瓶を洗った手を薬用石鹸で洗えば良かったのだ。満足に洗わない手で、食べ物をつまんで食べた。そのとき、花瓶の水のなかで大量に繁殖していた雑菌を、おそらく体内に取り込んでしまったのだろう。
それにしても抵抗力を失っている体というものを、ぼくは意識せざるを得なかった。若い頃なら、この程度のことでこんなにならなかったのではないか。

以来、冷たいものを避け、暖かいお茶などをいっそう採るようになった。
コーヒーは以前から真夏でも暖かいものを飲む。それがぼくの流儀である。昼間の二階のリビングでエアコンつけず、汗をかきつつ熱いコーヒーを一日に一杯だけ飲む。
暑い季節には熱いものを採る。これは貝原益軒の『養生訓』にも記載されている。昔の人は知恵がある。



note menu    close   next