2010年4月13日(火)  筍の日

筍(たけのこ)の煮物を作った。今年になって3度目である。いつもなら、その倍くらい食べている。
この春は天候不順で、東日本は寒い日が多い。筍好きには朗報である。西日本産のものは例年通りに出回り、東日本産は例年よりも遅れるから、いつもよりも長く筍を食べることができる。だから、今年は比較的ゆったりと構え、それが筍を食べた数に現われている。ぼくが春を筍で感じるのは、3月の出始めから4月の終わりに向かうにつれて、次第に味が移ろっていくからだ。

おとといの日曜日、筍を食べてもらおうとK君を招いた。例年ならばワークショップの塾生たちにふるまうのだが、それは昨年に懲りたし、ワークショップの事情で、今年は実現が不可能だった。
一年前の筍会では、これまで一度も生筍を食べたことがない塾生がいた。工場で灰汁抜きされた、味のないパック筍しか知らないのだ。いや、そんなものでも味はある。灰汁抜きのために使われた薬品の味がする。本物を知らないなら食べてみて、これが本当の筍なのかとわかればいい。ところが彼は食べても食べても、筍の香りと味を認知できなかった。
彼はニンジンやキャベツの味もわからないのだろうか。

K君は8年ほど前にNHKの『長崎 天主堂をゆく - 写真家・雜賀雄二の世界 -」という番組制作に腐心してくれた、心根の優しいディレクターだ。当時は長崎支局の勤務だったから、その後も写真学校の合宿で行くとたまに会い、互いに近況を語り、彼の仕事の悩みを聞いた。現在は渋谷のセンター勤務となり、結婚し、今年になって子供が生まれた。
久方ぶりにメールをし、筍の季節に我が家に来ませんかと書いたら、いつもNoteの筍の話を読んで、ヨダレが出そうだったから是非にご相伴したいと返事が来た。去年、奥さんが生筍を料理してくれたが、灰汁(アク)が強すぎて・・・とも書いてあった。灰汁が抜けていなければ、筍は食べられたものではない。渋みというか、苦みというか、とにかくあのエグさに舌が麻痺してしまう。胃も荒れる。そのせいで筍など二度と・・・と思ってほしくなかった。
当日、彼はひとりで現われた。家族で、と思い込んでいたぼくたちは拍子抜けがした。でも首もまだ座らない赤ん坊の様子を聞けば納得するしかない。

夕飯にはちょっと早い時間だったが、まだ暖かさの残る煮物に再び火を入れると、筍の香りが部屋に漂った。20年以上前に長崎で買った呉須(藍色)の骨董大鉢に盛りつけて、多めにかつを節をふりかけると、湯気の中でかつを節は舞い踊った。K君はスタート前のマラソン選手のように身を乗り出した。真っ先にぼくが手を出し、味見をすると上出来だった。さあどうぞ、と言い終わらないうちにK君が手を伸ばした。
8年前、番組の取材のために小倉に行ったとき、九州ラーメンを食べた。ホテルやタクシーの運転手からおいしい店を聞き出し、ふたりで店を訪ねた。店先で列ぶぼくたちに容赦なく雨は降り続き、ようやく入った店内は、ムッとするほど濃厚な豚骨スープの匂いが脳天を直撃した。ラーメンを食べながらの具体的な会話は忘れたが、そのとき彼の舌の確かさを知った。
K君は話もそこそこに筍を食べ続け、その顔と食べ方を見れば、感想を聞くまでもなかった。

その日の品書きは以下の通りだった。 筍の他はすべてかみさんの料理で、できるだけ旬の食材を使うこと、筍に含まれたシュウ酸を体内に残さないためにカルシウムを採ること、を考えた献立となった。もちろん普段はこんな料理は食べず、至って粗食である。

シャブリの白ワイン。
筍の煮物。
ルッコラとトマトとチーズのサラダ。
アボガドとマグロ赤身の和え物。
海老のガーリック焼き、地中海風(?)。
空豆とホタテ貝柱のとろみ炒め。
あさりの炊き込みご飯。
豆腐のみそ汁。

ワインは何本もあるけれどまったく減らないから、こんな時こそと久しぶりに飲んだ。値段の割に普通だった。フルーティで悪くないのだが、特徴がなさすぎる。ただ筍との相性は意外によかった。
彼は筍の半分以上を食べ、炊き込みご飯も二杯食べた。

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久しぶりに、「本当の筍」を食べる事ができました。
教えてただいたやり方で、僕も筍を炊ける様になりたいなあ、と思いますが、雜賀さんの域まで達するのは大変ですね・・・。
うちのかみさんも、頂いた筍と炊き込みご飯をとても喜んでいました。
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その夜届いたメールにこんな言葉があり、ぼくは返事にこう書いた。

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食べている君の姿を見れば、こちらも嬉しくなる。

そんなに難しくないから、作っているうちにすぐにおいしい筍の煮物が出来るでしょう。
ただ、何度も言ったように、料理は手間の分だけうまくなる。
逆に言えば、手間をかけなければうまくならない。
それは様々なことにもいえることです。
料理は他のことに通じるから、ぼくは料理について言及することが多くなります。
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筍料理は生筍を糠(ぬか)で水煮するときに決まると思う。たぎる鍋を見つめ、灰汁をとる。水煮の時間を省けば灰汁が残る。やり過ぎれば、灰汁は抜けても同時に筍の風味が飛んでしまい、その加減が難しい。灰汁は少し残っている方がうまいと思う。
筍の選び方。水煮。かつを節。味付け。・・・。筍に限らず料理はすべてがそろって初めて旨いものになる。
オーディオ機器と似ている。すべてのパーツを吟味しなければ、良い音が再生できる機器は生まれない。ひとつでも機器のレベルが低ければ、音はそのレベルとなる。
でもプロの調理人ではないから、料理は適度に旨ければそれでいい。オーディオ機器も完璧な音を求めれば、いくらお金をつぎ込んでも足りないだろう。

自分の仕事ならば完璧を目指したい。惜しげなく自分のすべてを出したい。手を抜かないのは、当たり前のことだ。手抜きは、素人目にはわからないだろうが、わかる人には一目瞭然だ。プロの仕事とはそういうものだ。
灰汁を抜いて売られる、お手軽なパック筍のような人間が多くなった。労を惜しんではいいものが生まれないのは、料理だけでない。そんな簡単な事実さえ、実践できない人間が増えた。
目の前を見つめることも、味わうこともできず、それが当然のごとく自分だけの妙な世界に陥っている。パック筍しか知らない人間のように。



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