2010年2月10日(水)  日本語

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「ただいま」
「お帰り」

日本遺産に「日本語の挨拶」を選んだ人がいて、この言葉が並んでいた。ぼくの予測の範疇を大きくはみ出していたから、見つけたときは衝撃が走った。

外出するときに出会うと「いってらっしゃい」と必ず声をかけてくれる近所の美人の奥さんがいる。すぐそこのスーパーに行くだけなのにと思いつつ、ぼくは「行ってきます」と返し、しばらくホンワカとした心地良さにひたっている。
かと思えば、隣家のおばさんは刺々しいから顔を会わせたくない。こちらが挨拶しても知らん顔である。とうとうこちらも声をかけなくなった。

世界各地の学校で日本語を教えている外国人教師のための研修施設が埼玉県にある。正確な日本語を現地の子どもたちに教えるために、各国の先生たちがさらなる日本語の向上をめざして研修を受け、多くはすでに不自由なく日本語を使っている。その様子を紹介した後、先生たちにTVのレポーターが質問をした。
「日本語をどう思いますか?」
「日本語を話しているときは、自分が優しくなれます」
示し合わせたわけでもないのに、多くの先生がこんな返答をしていた。

使う人が優しい気持ちになれる言語・日本語というものを初めて意識した。日本語とはそんな言語なのか。外国人の先生たちの答えは、ぼくに大きな驚きを残した。
言葉の響きや、ゆるい語調が、幼児語に近いのだろうかと思った。幼児に話しかけるとき、どんな人でも子どもの目線に立ち、優しい言葉で接する。でもそうだとすれば単に幼稚(平易)な言語というだけだ。むしろ、日本語はとても難しい言語のひとつである。
日本語の語彙の豊富さが関係するのではないかと考えた。日本語は絶妙な名詞や微妙な言い回しが、世界でも群を抜くほど多い言語である。先生たちはおそらく自分の国の言語にはない表現を日本語に見つけたのだろう。上達したことで単なる意思伝達の手段という域を超えて、先生たちは、もう少し深いところで日本語を理解できるようになったのだ。
そして、日本で生活するうちに、相手への思いやりや、謙遜や、謙譲などの日本語を体感したのだろうと思われた。
言語は人を変えるのだ。
確かに納得することがある。アメリカに行き英語を使うとき、ぼくは冗談がスムーズに出る。


日本語の挨拶を日本遺産に挙げていたのは、鹿島茂さん(フランス文学者)である。着眼点が鋭い鹿島さんに、これまで一目置いてきた。そして今回またしても、それを認識させられることになった。

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「外国語の教師として、あるいは翻訳者として、日本語と外国語の往還に従事していると、ごく日常的な挨拶にもかかわらず、翻訳不可能な日本語というものにときどき出会うことがある。
たとえば、家族のいる日本人なら誰でも毎日交わしている(はずの)「行ってきます」「言ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」という、外出時と帰宅時の挨拶。じつは、これ、少なくともインド・ヨーロッパ語系統の言語には翻訳不可能なのである。もちろん、似たような状況において、フランス人なり、英米人なりが口にする言葉というのは存在する。しかし、それは、「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」とはおおいにニュアンスを異にする言葉なのである。

それが知りたければ、小津安二郎の映画をスーパーインポーズで見ることをお勧めする。例えば『お早よう』における杉村春子と中学生の息子との、「ア、お帰えんなさい」「只今ァ」というやり取りの場面には、「あっ」と驚かれるにちがいない。なぜならどちらの挨拶もフランス語字幕では「ボンソワール」となっているからである。なんという平板さ!。「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」というなんでもない日本語の挨拶の奥深さ!。
思うに、かつて、小津映画に描かれたような日本的なアンティームな家族関係を成り立たせていたのは、これらの挨拶であった。そこには、家族同士の相互信頼と相互尊敬が最小限の言葉で表現されていたのであり、この挨拶を交わすことにより、われわれは、知らず知らずのうちに家族の絆を確認しあい、家族の成員が互いの敵となるという最悪の事態を回避することに成功していたのだ。まさにこれこそが日本が世界に誇るべき「日本遺産」であったのだ。
だが、やんるぬるかな、われわれはだれもそれに気づかなかった。いや、気づかなかったどころか、積極的にそれを捨てようとさえした。

夫や子供は、朝、なにひとつ言葉を発せずバタンとドアを閉めて会社や学校に出かけてゆく。家に残った妻もいっさい言葉を発せずに見送り、後片付けや掃除を始める。同じく、帰宅した夫や子供はソファーにドッカと座ると黙ってテレビのスイッチを押す。妻もまったく無言である。これが、いまではごく普通の「家族の情景」と化しているのだ。
というわけで、「日本遺産」として「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」という外出時と帰宅時の言葉を強く推したい。こんないい言葉は世界広しといえども存在していないのだから。

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昨年のNoteに書いたスポーツ人たちの「感動を与える」発言は、一段と増殖している。オリンピックが近くなって、普段よりもスポーツ選手のメディア露出が多くなっているせいだ。彼らは人を見下しているつもりはないのだろうが、日本語としては、そうなっていることに気がつかない。しかも、感動するかどうかは受け手の側の問題だ。君たちがどうこう言うべきことではない。
サッカー日本代表の岡田武史監督は、以前、アウェイの試合後のインタヴューで「(わざわざ応援に来た)観客の皆さんから感動をいただいた」と話していた。
昨日の新聞(夕刊)には五輪代表選手団団長の橋本聖子さんが、「夢や希望、感動を伝えられるベストパフォーマンスができるようにしたい。士気を高められるよう選手をサポートする」と語っていた。

ふたりはさすがに自分たちが「感動を与える」のだと言わない。指揮官の岡田さんが「観客から感動をいただく」と言うにもかかわらず、選手は「観客に感動を与えたい」と言う。そんな選手たちを率いている岡田さんには頭が下がる。
選手は試合後のインタヴューに仏頂面でボソボソとしゃべり、時にはそっぽを向いて答えている。終わるとレポーターに「ありがとう」も言わず、頭も下げず、そそくさと去るサッカー選手が圧倒的に多い。インタヴューされるのが当たり前、という奢りをそこに見る。レポーターは視聴者の代表であり、TVカメラの向こう側で多くの人間が見ていることを、彼らは理解できない。

鹿島さん流に言えば、サッカー選手の多くは挨拶のない家庭で育ったのだ。彼らには教育的指導を宣告したい。日本サッカー協会にも。
同じスポーツでも、野球選手はずっとマシだ。インタヴューもきちんと受け答えをするし、観客も大事にする。フィギィア・スケート選手のインタヴューにいたっては、とてもまともだ (ら抜き言葉は嫌いだが、このさい大目に見よう)。
少年サッカーと少年野球の時点で、すでに大きな違いがあるという話を、その年代の子供を持つ親から聞いた。サッカーは指導者が礼儀を教えないらしい。むしろ、指導者がダメなのか、なめられているのか。

「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」
美しい言葉を惜しみなく使いたい。言葉は使うことでのみ、生かされるのだ。
「ありがとう」「どういたしまして」「こんにちは」「さようなら」「おやすみ」「お早う」・・・。

スーパーのレジ係に「ありがとう」と言い、本来は向こうが発するべき言葉だといつも後から思う。誰もいない家に帰ってドアを開け「ただいま〜」と言ってしまう。
そんな自分を、ちょっと間抜けに思うことがある。それもいいではないか。



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