2010年1月21日(木)  合羽の人

ガス会社からの連絡がポストに入っていた。
10年ごとにメーターを交換することになっており、近々工事をしたいというものだった。家の外のメーター交換だから、家人がいなくても良さそうだったが、念のために希望の日時を連絡した。
その日はあいにくの雨で、もう少し気温が下がれば雪になっただろう。しかも一番雨足の強いときにその人はやって来た。腰が低く、よく通る高温の声の持ち主は面長で、歳は40代と思われた。

工事のためにぼくはリビングのガスストーブを切り、室温の急激な低下を考えると、本当は開けたくなかったのだが、2階の窓を開けて工事の様子をうかがった。どんな方法で交換するのか見たかったのだ。ぼくが傍で見ていれば、見張られているようで仕事がやりにくいだろう。
ぼくは子供のころから様々な工事に興味があり、それは今でも続いている。近所で道路を掘り返したり、電柱に電力会社の人が上っていると、思わず立ち止まって眺めてしまう。しかも何のための工事なのかと話しかける。工事の機械や作業方法に興味があるのだ。家の前の道路で始まった水道管の敷設工事を、冬場の深夜にもかかわらず見とれてしまったこともある。暇そうな工事関係者に様々な質問を浴びせる。工事は場所を少しずつ変えながら何日も続いたから、ぼくはけっこう楽しんだ。

メーターを交換する前に、その人は何かの器具を取り出して眺めていたが、しばらくすると玄関方面に向かった。ピンポーンという音がしたけれどぼくはインターホーンに出ず、直接玄関の扉を開けた。合羽(カッパ)のフードから雨を滴らせた人は言った。
「どこかでガスが漏れていますね」
メーターのところに行くと、温度計にも似た大型のガス漏れ検知機がガス管につないであった。ガラス管の内部には水が入っており、ガス漏れがあると圧力が低下するから、そのガラス管の水が少しずつ下がるのだという。
外の湯沸かし器周辺を別の検知器で調べた後、家中のガス栓を調べることになり、その人は合羽を脱いで部屋に上がった。2カ所のガス栓はまったく問題はなかった。
「他にガス栓はありませんか?」
「ありません」
「それなら家のどこかの配管で漏れているようです」
その人はその時やっと重大事件に遭遇した刑事のような顔をした。
ぼくはゴクンとつばを飲んだ。

「ガス漏れ箇所をどうやって見つけるんですか?」
「まず床下に潜り、確認します」
「壁の中を通る配管はどうやって調べるんですか? 壁をはがさなければ・・・」
「そんな必要はありません。漏れている場所が特定できなくても、家の内部のどこかで漏れていることが確認できれば、家中のすべてのガス管の内部をシールドする方法があります」
「ガス管を内側から完全密封するわけですね」
「そうです。その前に調査するチームが来ます。よく救急車のようにサイレンを鳴らして走っているガス会社の車があるでしょ。あれが来て調べます」
とても大掛かりなことになりそうだ。まずいことになったものだと思いつつ、おもしろそうだという気持ちが少しあった。日常性からの逸脱はときめくものだ。とにかく今まで普通に暮らしてきたのだから、ガス漏れが判明しても今日明日に死ぬことはないだろう。

今一度確認すると言い残し、その人は外に出た。観念していたら、しばらくして再びチャイムが鳴った。
「漏れが止まりました」
外に出ると、新しいメーターが取り付けられていた。メーターを交換したらガス漏れはなくなったらしい。どうやら古いメーターとガス管の接続部分から漏れていたのだ。以前の設置方法が杜撰だったということか。今度は念入りに接続部を仕上げたから、もう大丈夫だと合羽の人は言った。
そのとき、濡れた手を見て素手のまま工事をしていたことに気がついた。冷たい雨は降り続いていた。

そうだ、コーヒーと思った。
しかしもう遅い。わが家で手間取ったために予定が押しているはずだ。すぐに次の家に向かわなければならないだろう。家に引き返し、冷え切った缶コーヒーを持ち出して、その人の車の荷物台に置いた。すべての仕事を終えて帰るとき、暖房が十分に効いた車の中で飲むなら冷たくてもいいだろう。

リビングに戻り、ガスストーブに火を入れて、10分ほどが過ぎただろうか。雨が雪に変わるかもしれないと外を眺めたとき、隣の家のメーターを交換するその人の姿を見た。大急ぎで豆を挽き、コーヒーを淹れ、外に持って出た。
誠実な仕事ぶりに、ちょっと感動していた。温かいコーヒーを飲んでもらいたい。そう思わせる人柄だった。
最近はあまりにも無礼な人間の多さに、電車に乗るのさえ嫌になるほどだけれど、これまで日本はこういう人に支えられてきた。そしてまだ受け継がれている。

メーターまわりの配管の白いペンキが剥げ、それが普段から気になっていた。ぼくが言うまでもなく、工事の人がそれを把握していたのはさすがである。雨だからやらないけれど、後日ペンキを塗っておくと言って帰った。翌日、知らないうちに配管は白色になっていた。
その人はメーター交換のマニュアル通りのことをやっただけかもしれない。でも口先だけではなく、きちんとした仕事ぶりは心を打った。
東京もまだまだ捨てたものじゃない。



note menu    close   next