2010年1月7日(木)  笑う

去年今年貫く棒の如きもの
この句を知ったのは、高校生の頃だったろうか。違和感があったのを覚えている。大晦日の夜から元旦へと変わるそのときを鮮烈に感じていたからである。雪降る田舎の冷たく清冽な空気がそれを感じさせたのか。それとも何かの志を抱き、その日から始まる一年を意気込みとともに迎える気持ちがあったのか。それはもうわからない。
近年のぼくは、これを詠んだ高浜虚子(うかつにも中村草田男の句と思っていた)の心境がわかるようになった。いつ頃からその心境になったのかさえ定かでないほど、区切りのない人生を過ごしている。何年間かが団子のように棒でつながっているのだ。むしろ虚子は複数の年をも貫く強い志をこの歌に詠んだのかもしれない。そうなれば解釈は違ってくるのだけれど、とにかく、一年に取り立てて区切りなど感じない。大晦日も元旦もそれほど意識をせず、なんとなく新年を迎える。
あるのは、時間の流れがとても早いことの嘆きだけだ。

年の暮れが近くなったころ、ふたりにメールを出した。
去年の途中でワークショップを辞めたふたりだった。その後どうしているのだろうか。
写真学校やワークショップを年の中途で辞めるのは、よくあることだ。これまで写真学校を辞める学生がいなかったのは、ふたつの年だけだ。ワークショップは年限がないから続けたければいつまで来てもいいし、辞めたければ年度末で辞めればいい。でもたまに中途で辞める塾生がいた。理由は様々だが大方は「自分が写真に向いていないことを理解した」というものだった。とても正当な理由だ。それを自分でわかることは大切だ。
ところがこのふたりは違っていた。ひとりは写真が撮れなくなり、歩む方向を見失い。ひとりは以前から変だったという心身のいっそうの不調を訴え、ともに精神的に参っているように見えた。いいものを持っているふたりだったから残念だった。そんなときこそワークショップという場を生かすべきなのに、と思ったが、人に会いたくないという言葉から判断すれば、逆に苦痛だったのだろう。

「返事を書きたくなければ、一向にかまいません」
ぼくはふたりの気持ちを慮ってそう書いた。そして返事は来なかった。気持ちの整理がつかないのだろう。心身ともにまだ疲れているのだろう。そう思っていたら、ひとりから少し遅れた年賀状が届いた。裏面いっぱいに植物の写真がプリントアウトされていただけで、一片の言葉もなかった。ぼくの宛名をどういう気持ちで書いたのか。
同じ日の夜、もうひとりからメールの返事が来た。恐る恐る開いたら、最初の文面だけで、深く長い安堵のため息が出た。

「先生、新年の挨拶もせずに、申し訳ありませんでした。
明けましておめでとうございます。昨年は本当にお世話になりました。儀礼的な挨拶ではなく、本当にお世話になりました。色々とご迷惑を掛けてしまって。
先生の方から連絡を頂くとは思ってもみず、驚きました。ありがとうございます。」

そうなのだ。年長者からの文には返信するのが礼儀である。日本、韓国、中国に根付く儒教の精神をそこに感じた。いや、本当は嬉しかったのだ。
「暦の節目は不思議なものです。2009年が2010年と名前が変わっただけなのに、自分にも何か新しい事が訪れるような気さえします。」
こんな文面に、彼が良い方向に向かいつつあることを感じ、そして若さだなと思った。ぼくの年頭感とまるで違う。
メールにはワークショップを辞めて以後の様子が綴られ、最後にこうあった。
「先生、メールありがとうございました。文章を書くと頭はすっきりするものですね。先生から頂いたメールが良いきっかけになりました。感謝しています。」

ぼくは彼に檄(げき)に近い返事を出したあとで、忘れていたことを思い出し、追伸を出した。
「『もっと笑え』
笑いを忘れたら、人はダメだ。」

偶然にも昨日の新聞の夕刊に、近藤勝重さんのこんなコラムが載っており驚いた。
「・・・よく笑う。というより努めて笑うようにしている。朝の鏡の前では特にそうしている。
東京医療保健大学の高柳和江教授といえば、『笑いの処方箋』で有名だ。朝の洗面時、鏡の自分を見て『なんて美しい』『なんてハンサムだ』と心から思いつつワッハッハッと5回笑う健康法を提唱していて、実践者も多い。・・・」
「・・・笑うと、表情筋から伝わる情報に脳が反応する顔面フィードバック効果でさらに笑えるのだ。2年前の夏の終わりにがんで亡くなった後輩に『笑え、笑え』と手紙にしたため、そのことを紹介したことがある。後輩は免疫力を高めるために歩くこと、体を温めることを実践中だと言って、『笑うのはどうも・・・・』と電話の向こうで申し訳なさそうに笑った。それがぼくの聞いた彼の最後の声で、今もその声は耳の奥に残っている。・・・」

笑うのはいいけれど、朝の洗面所は寒すぎる。それに朝イチで笑うと小便を漏らしそうである。だから朝は笑わない。しかしわが家ではしょっちゅう笑っている。ここのところ週に一度は涙が出るほど笑う。大体はぼくの馬鹿な行動や発言をかみさんに笑われ、つられて一緒に笑うのだ。実はひょうきんである。
ぼくが変なことを連発するとかみさんが「おかしな人」と言う。間髪を置かずに「おかしけりゃ笑え、ワッハッハッ。おかしくなくても笑え、ワッハッハッ」。妙な節をつけ、大声でそう言うのも我が家の決まり事になっている。

ぼくには尊敬する人がいる。
あのマリリン・モンローを指圧した唯一の日本人、今は亡き浪越徳治郎先生(指圧療法士)だ。先生は「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞(セリフ)を言い放ったあと、両手の親指を立て、万歳のような格好で必ず「ワッハッハッ」と大声で笑った。
そのころは変なおじさんと思っていたが、歳とともにその偉大さがわかってきた。福よかで、赤みを帯びたテカテカの顔を思い出す。あの尊顔は、まさに生き恵比寿であった。

徳次郎と覚えていたが、もしやと思い確認のためにウィキペディアを見たら、正しくは徳治郎で、次のようにあった。

マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣(けいれん)で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。この事について浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。
1971年には無所属で第9回参議院議員通常選挙全国区に立候補したが落選した。
テレビ番組にも多く出演した。最も有名な出演作品は天才・たけしの元気が出るテレビ!!である。 当初、豪快に「アーッハッハ」と笑うことから「アッハー浪越」の名前で登場していた。 後に、ジェットコースターに乗った際に普段の笑い声が消え、あまりにも怖がっていたためそのリアクションから「ジェット浪越」と改名し、多くの視聴者を笑いの渦に巻き込んだ。特に「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の決め台詞と、入れ歯を外しながらの高笑いは高名。2000年9月25日午前3時7分に、肺炎のため東京都文京区の病院で家族に見守られて94歳で他界した。日刊スポーツによると、浪越は死亡する前に100歳まで生きると遺言をしていたという。

さすがと思った。これが浪越徳治郎先生なのである。



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