2009年12月15日(火)  ウォーホルの段ボール箱

昨日は新聞の休刊日だった。いつもは起きてすぐに朝刊を読みながら朝食をとるのに、手持ち無沙汰がとても嫌である。何となく目に止まったマガジンラックの芸術新潮11月号を取り上げて開いた。

「冷泉家のひみつ」という特集に掲載されていた古い時代の書(和歌)はおもしろかったが、書といえば今一番関心があるのは石川九楊さんだ。今年出版された『近代書史』という本は、上梓されたのを知りすぐに欲しいと思った。しかし18,900円もするから手が出ない。
日曜日にそんな話をしていて、かみさんの同僚の若い女性が九楊さんの弟子であることを知った。書家を目指しているわけではないという。それにも関わらず、九楊さんに教えを請いたいと手紙を出したらしい。返事が来て、こうあった。
「直に会って見極めるから京都まで出向くべし」
なぜ京都なのかと言えば、九楊さんは多忙で、京都滞在中しか時間がとれなかった。彼女は出向き、そして気に入られたのだろう。晴れて弟子になった。
なかなかいい話だと思う。石川九楊といえば、名前を聞いただけでぼくでも尻込みする。直に会っても何を話していいのかわからない。そんな人に会うために単身京都に乗り込む。いい度胸である。そんな女をいいなと思った。もちろん男でもいい。そんな人間をとても好きだが、残念ながら希少種になった。九楊さんはその度胸と心根を感じ取ったのだ。簡単に弟子をとるとは思えない九楊さんが弟子にした人。ぼくはその女性に一度会ってみたいと思った。

「捨てられない人 アンディ・ウォーホルの段ボール612箱」

わくわくするような記事を芸術新潮の後半に見つけた。おもしろいのでそのページをそのままスキャンしてここに載せようかと思ったけれど、著作権の問題が生じるからそれは止め、一部(本当はほとんど)を引用転載します。

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(前略)
ウォーホルはモノを捨てない人だった。1987年2月に死去したさい、マンハッタンの4階だてのタウンハウスは、外出のたびに買いあさったショッピングバッグやら衣装箱やら宝石箱やら、雑多な品々で満タン状態、まともな部屋は浴室とキッチンだけだったという。おどろいたことに彼は、不要品すら段ボール箱(サイズは25x45x36cmほど)につめこんで倉庫に送り保管していた。1974年にはじまったこのゴミ処理法は「タイム・カプセル」と名付けられ、電話口述の「日記(ダイアリー)」とならぶ彼のライフワークとなる。箱のありかを把握しておくべきだけれど、行方不明になってもかまわない、なぜって中身から解放されて、心の重荷がひとつ減るわけだからね、と語る"身ごなし"の軽やかさがこの人の身上。つねに「現在」を全力疾走しえたのも、「現在」をあっさり忘れさる、こんな工夫のたまものだろう。

総数612個のカプセルは1994年にAWM(ウォーホル美術館)に移管され、2003年には数個の内容物による「タイム・カプセル21」展も開かれたが、本格的な調査プロジェクトがはじまったのは1年半ほど前。4人のアーカイヴィストが箱を開け、中身をチェックし、撮影し、内容リストを作成するという作業がえんえんと続いている。ひと箱あたり平均400点。作品制作の依頼書、新聞のキリヌキ、買い物のレシート、図書館から借りたままの資料・・・・。1万7000ドルの現金が出てくるかと思えば、食べ残しのキャンベルスープ缶、キャロライン・ケネディがエドウィン・シュロスバーグと結婚した時のウェディングケーキ(1986年製、かちんかちん)、エジプト産とおぼしきミイラの足(ウォーホルは自他ともに認める脚フェチだった)などなど。珍品ではジャクリーン・オナシスのヌードポスター。「アンディへ。変わらぬ愛をこめて。ジャッキー・モントーク」とのサインがあり、まさかね、とは思いつつ鑑定したところ、本人の筆跡にまちがいなかったという。ジャッキーはウォーホルとは親しくモントークの浜辺の別荘を訪ねたことも。パパラッチされた写真が「ハスラー」1975年8月号に掲載されたさい、彼女が冗談で送ってきたものらしい。

ウォーホルはタイム・カプセルを画廊で福袋のように販売するプランも持っていた。価格は1個100ドル、と考えていたが、試しにいくつか開けてみて、そのオモシロさに仰天。一気に4、500ドルに改めた(86年9月30日の日記)。ゴミの山が一瞬にして300万ドルの宝の山に変じたのだから、ミダース王も顔負け。ポップアート史や20世紀末ニューヨーク研究の学術資源としても、かくも豊穣な鉱脈はまたとあるまい。これにくらべれば、1989年に売り立てられたAWコレクション(雜賀註 : ウォーホルが蒐集したもの)の宝石類や美術品など、じつはゴミにも等しい存在だったかも。

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ウォーホルだから意味がある。ウォーホルのゴミだからおもしろい。
そんな人でければ、やはりゴミはただのゴミである。
しかし世の中のゴミをゴミと見るか、別の意識で見るかは、見る人による。



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