2009年12月12日(土)  捨てたカーディガン

捨てどきの見極めは難しい。
食べ物ならばまだ食べられるかどうかで決められる。腐っていれば捨てる。賞味期限というものは当てにならない。食べた人が食中毒を起こせば、メーカーの社運を左右するほどの大騒ぎになる。だからメーカーは賞味期限を早めに設定している。ただし、「赤福」や「船場吉兆」のように賞味期限を改ざんするような会社もあるから、消費者が気をつけなければならない。賞味期限に頼るのではなく、自分の鼻と舌を信頼すればいい。動物には本来自分でそれを見極める能力があるはずなのに、その能力が人から失われつつある。それが問題なのだ。
近所のスーパーは9時まで営業しているが、7時半〜8時ころになると総菜や弁当売り場はにぎやかになる。値段が半額になるのを待つ人たちがどこからともなく現われるのだ。若者や老人だけでなく、年齢は様々である。昨年の経済不況以前から庶民は知恵を使っている。
わが家ではその時刻に行くことはなく、普通の時間帯に20%引や半額の野菜などをけっこう買う。賞味期限が切れる寸前になると明らかに味が落ちる食材は買わないけれど、買ったものをその日に調理するからまったく問題はない。年に一度だけ、大晦日の夜は値引きを目当てに勇んで行く。普段はとても高価な黒毛和牛の霜降り肉の半額パックを買い込んで冷凍する。

捨てどきが難しいのは衣類である。
流行に左右されない服を身に着けることにしている。流行りの服はその渦中にあるときはいいけれど、それを過ぎればカッコ悪くて着られない。
若い頃、田舎者のぼくは東京に出て、目が眩んだ。今のように様々な情報が津々浦々まで浸透している時代ではなかったから、東京と地方のファッション格差が確実にあったのだ。東京の洋服を身に着けなければ・・・という強迫観念のようなものに襲われた。それは愛知の大学に入ってからも続いた。
70年代特有の、今から見れば恥ずかしくなるような格好に憧れた。書いているだけでも赤面する。
当時はまだグループサウンズの残滓があり、フォークが幅を効かせ、ニューミュージックと呼ばれる世代が勃興をはじめていた。大学には長髪、坊主頭、アフロヘアー、ベルボトム、ヒッピースタイル等の先輩たちが闊歩していた。今の時代なら珍しくもない格好だが、その頃はかなり異質だった。それが「芸大」という、気取って、珍妙で、しかしおもしろい世界だった。

大学にようやく慣れた頃に気がついた。東京出身の同級生たちは例外なく質素な服装をしていた。彼らの方が地味で金のかからないものを身に着けていた。東京、大都市を崇拝していた自分の稚拙さに遅まきながら気がついた。ポッと出の田舎の若者がハマってしまう精神的な病のようなものだった。それに気がつきながら、それでも外見を気にするヤワなところがあった。

ぼくは今、洋服をまったく買わない。最後に買ったのはいつなのかすら思い出せないほど洋服に関心がなくなった。パンツや靴下やTシャツを除き、この5年間は何も買っていない。いや、10年ほど前から服を買わなくなった。最後に買ったのは、写真学校の合宿で長崎に行ったとき、必要に駆られて入手したユニクロのワゴンセールの500円半袖Tシャツではないかと思う。確かそれが5年前のことだ。
ユニクロがこれほど売れる前からユニクロ党だった。いかにもデザインしました、というやり過ぎでないところが気に入っていた。一番いいのは値段が安いところだ。
写真学校で、ハタと気づいた時がある。内から外まで、上から下まで、身に着けたものがすべてユニクロという日があったのだ。靴までも。タマネギのように脱いでも脱いでもユニクロ。まるでユニクロのマネキン人間ではないか。さすがに自分でも呆れ、その日は自虐的になって学生たちにそれを話して笑われた。
今はそのユニクロさえも行かない。洋服にお金を使うのが惜しいのだ。

何でもユニクロと思われるのもしゃくなので、ちょっとユニクロ製品について書いておけば、靴下は持ちが悪い。特にかかとがすぐにすり切れる。おろしたてで他はまったく問題がないのに、かかとだけが薄くなる。パンツのゴムも伸びるのが早い。
先述したように最近はこれらの消耗品しか買わないのだけれど、だからこれらはユニクロで絶対に買わない。パンツは伊勢丹がいい。布地の肌触りがよく、長持ちで、伊達に高価ではない。靴下は無印良品の綿製品がいい。蒸れなくて、かかとが丈夫で、長持ちする。
このまま体格が変わらなければ、死ぬまで洋服を買わなくても大丈夫だと思う。ユニクロ党になるずっと前に購入した、流行を追わず、安物でもなく、老いても着られそうな洋服がある。

洋服など安物でも高級品でもどちらでもいいのだ。超高級品を身に着けていても、どう見ても安物にしか見えない、あるいは似合っていない貧乏臭い金持ちがいる。かと思えばユニクロ専科のような人や、フリーマーケットで仕入れた中古品や古着だけでかっこ良くまとめる着こなし名人もいる。要はセンスなのだ。そういう人は買う時に自分のワードローブを思い浮かべる。手持ちのどの服と組み合わせられるか。それが頭の中で自然に出来るから、着た時にチクハグさがない。
政治家や会社人間の普段着を見ると、あまりにもダサクて笑ってしまうことがよくある。スーツという制服に身を包むことに安心している人間は、それを脱いだらただのおじさんに成り果て、見たことのある顔なのに誰だっけ、ということになる。そんなところに人間の隠された部分が滲み出てくる面白さがある。

新しい服を買わず、捨てるばかりである。しかしどの時点で捨てるのか、それが難しい。気に入っていればボロボロになるまで着古し、「もういい加減に・・・」とかみさんに言われても着続けている。家で着るのだから誰も見ていない。時にそんな姿で近所のスーパーに行ってしまうが、誰もぼくのことなど注視していない。
でも、黒のカーディガンをかみさんに指摘された時には自分でも頭を掻きたくなった。袖を通す時にどちらから手を出すか迷うほど大きな穴が空いた20年モノのカーディガンで外出していたのだ。若者のジーパンなど穴だらけだと反論したが、季節が進み、そこから風が入りスースーするようになって仕方なく捨てた。コーヒー豆をグラインドする時に、ミルの出っ張りに毛糸が引っかかり穴は次第に大きさを増していた。

母親は古いセーターをほどいて湯気にさらし、編み込みの曲がりを直した後の毛糸で編み物をしていた。
毛糸を球状に丸める作業をよく手伝わされた。束ねた毛糸を両腕に引っかけ、相手が毛糸の端をくるくると巻いてボールのように丸めていく。両者の呼吸が合わなければ、スムーズに作業は運ばない。
母親ならば、捨てるカーディガンをもったいないと言っただろうかと思いつつ、記念に写真を撮り、とうとう捨てた。

 

捨てたカーディガンの写真



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