2009年10月7日(水)  アガルタの遠近法

かすかに重力から逃れた浮遊感を感じたとき、高速エレベーターは静止した。
新宿の街を28階から眺め、人間がこの視座を獲得したのは、人類という歴史で捉えるとつい最近のことだと思いつつ、エッフェル塔やエンパイアステートビルの展望台から、初めてパリや、ニューヨークを見下ろした人たちの興奮をわずかに味わった。

小林のりおさんの個展が、その階にあるニコンサロンで開かれていた。
会場では友人のT君が小林さんと話していたが、ぼくを見つけると久しぶりにも関わらず、挨拶もそこそこに興奮して言った。
「雜賀さん知っています? この写真、デジタルですよ ! 」
小林さんと言えばデジタルの大家で、そんなことは周知の事実である。今ごろ唾を飛ばしながら言うことではないと思いつつ、T君が興奮するのも無理はないと思った。小林さんの写真はデジタル写真もとうとうここまで来たかと、いうレベルのブリントだった。それらがデジタルカメラによって撮られ、小林さんの自宅の大型プリンターでブリントアウトされたということを知らなければ、従来の中判カメラで撮られた銀塩ブリント(大きく伸ばしても粒子が目立たずきれいなトーンが再現できる大きめのフィルムカメラで撮影し、それをプリントしたもの)と見誤るほどの素晴らしさだった。
T君の指摘はある意味で正しい。それは写真を熟知したプロの見方である。しかし、プリントのテクニカルな美しさとカメラの進化についてだけを話し、小林さんにそれらの質問を浴びせ続ける彼の熱気はギャラリーの外まで届くほどで、ニコンの宣伝にはなるだろうが、写真を見る人間には耳障りだったから、もうその辺でやめたらという意味で、ぼくは言った。
「テクニックだけじゃなくて、写真そのものについて話そうよ」
ぼくの言葉を聞かなかったかのように、彼はその後もカメラやプリンターの質問を続け、ぼくはひとり離れて写真を見た。

同じ事物でも、肉眼で見たときとそれを写真に撮ったものは違う。そういう体験は誰しもあるだろう。人の目と機械の目の違いである。逆光や明度差がある状況下の撮影では違いは顕著に現れる。ファジィの要素が大きく働くことで、人の目はあらゆる状況に対処できるような仕組みになっている。一例を挙げれば、暗闇でも慣れれば少し見えてくる人の目と、真っ暗にしか写らないカメラのレンズ。人の目を再現できる機械(カメラ)を作ることなど、永遠に出来ないのでないかはと思うくらいだ。
大まかに言えば、テクニックはその差を埋めるものである。写真を出来るだけ肉眼で見た映像に近づけるための手腕だ。もちろん、肉眼に近づけることだけがテクニックのすべてではなく、撮影時から暗室仕事(デジタルではレタッチ)まで、様々な局面で臨機応変に繰り出さなければならない。プロはそれをやっている。
だから、ダメな写真というのは、機械の目の部分にとどまっていて、人の目の領域に踏み込んでいないという言い方もできると思う。見たときに違和感が生じるのはそのためだ。わざとその効果を狙ったのでない限り、違和感を持たれずに写真を見てもらう必要がある。違和感は写真そのものを見ることを邪魔してしまうからだ。
ないよりはあった方がいいのがテクニックだけれど、テクニックが上手くてもダメな写真があり、その逆もある。それを思えばテクニックはあってもなくても、どちらでもいいと思う。本当に写真が好きなら、そして必死になれば、やっているうちに身に付くものだ。写真教育をまったく受けていないぼくがそうだった。そしてぼくよりもずっと実績を持つ写真家の多くも、似たような経緯をたどっている。

テクニックだけは素晴らしいと言われるピアニストがいるように、テクニックだけが一流の写真家もいる。そういう人の演奏や写真は上手いのだけれど、それ以外の何かを感じない。その何かが核心なのに。
いい写真を撮る人になればなるほど、テクニックを持ちながら、写真にそれを感じさせないものである。別の大きな何かを持っているからだ。
とにかく、名器と言われるピアノをテクニシャンが弾いても、素晴らしい音楽が生まれるとは限らない。

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「モノが在る」
小林さんの写真を見てそう思った。写真はモノが写るものだと誰でも思うはずだ。でもモノらしきものは写っているが、モノそのものが写っている写真は多くない。言い換えれば小林さんの写真は、状況が撮られているのではなく、そこにただモノがある。
精神はディテールに宿る、という言葉があったような気がする。確かにそうも言えるが、追認のためのディテール、つまり状況や様子しか写っていない写真もあれば、デイテールから始まり、見る者をその先にもっと引っ張って行き、様々なことを思わせてしまう写真もある。
最高級カメラや大型カメラを使い、それを的確なプリントにすれば、モノに肉薄した克明な写真を撮ることは出来る。しかしそれにモノが写っているかどうかは別のことだ。極端な言い方をすれば、ピントが合っている写真なのにモノが撮れていない写真もあれば、ボケた写真にも関わらずモノが撮れている写真もある。

そんなことを考えて写真を見ながら、「写真とは見ることだ」と今更ながら思った。写真を撮る行為は見ることだという意味である。写真をやっている人も、いない人も、またしてもそんなことは当たり前だと思うだろう。でも見ることが抜け落ち、見ているようで見ていない目(写真)がいかに多いかと、小林さんの写真を前にあらためて思うのだ。

小林さんの写真は、人の目が慣れ親しんでいるモノ(世界)が撮られている。それなのになぜ、ハッとさせられるのか。


9歳のとき、父親から買い与えられたフジペットというオモチャのようなカメラで、少年は好奇心のままに写真を撮った。
小林さんが後年その写真を見つけたとき、失われたものが突如として現われた感覚があったのだろう。それは発見という心境に近かったかもしれない。小林さんにとってその写真は、記憶を喪失した人が昔の写真を手がかりに記憶を取り戻す、旅とも言える行為に似ていたのではないか。
ノスタルジックであるはずの写真に残された光景が、手の届かない懐かしい昔日ではなく、手触りすら感じるものとして突如よみがえったような気がする。
そして後年、小林さんは少年時代の写真に『アガルタ』とタイトルを付し、公にした。
それにしてもと思う。その写真にそのタイトルをつける絶妙。

今回の個展を小林さんは『アウト・オブ・アガルタ』と名付けた。それは、今、目の前にある光景というような意味を持っているのだろうか。
小林さんはこう書いている。
「現実に向って現実を失い、消えた現実が再び現実となって甦る・・・」

撮った瞬間から過去になる、写真という行為。
写真と向き合うようになって、それを意識したとき、ぼくは時間というものを初めて認識したように思えた。
人は過去と今を行きつ戻りつする者だ。そして過去をどう見るか(思うか)は人によって違う。しかし小林さんのタイトルを借りれば、人は等しく自分の中の「アガルタ」と「アウト・オブ・アガルタ」の狭間を生きているように思う。

少年はカメラを両手に抱え、ただただシャッターを押した。写真の知識など皆無に近い。だからこそ小細工のないストレートな映像を残すことが出来たのだろう。少年の目とカメラのファインダーとのまさにシンクロ。
何も知らなかった少年には戻れないけれど、小林さんはデジタルカメラという、よりストレートな道具を獲得したことで、少年の日々を続けているような気がする。
それらの写真を見て思う。
眼の前の光景はすぐに消え去るものである。現実を生きながら現実を見ず、残された写真で人は事実を悟ることがある。

「アウト・オブ・アガルタ」も、いつか「アガルタ」になってしまうのだ。
でも、今は現実を見るしかない。小林さんの写真はそう言っているようだ。


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(註)アガルタ Agartha

スリランカの古王国 (旅行者によってはチベットにあるという人もいる)。アガルタは不思議な国である。というのは訪れる者がそれと気づかぬままにそこを通り過ぎてしまうからである。彼らはそれと気づかずに、有名な「認識の大学」パラデサを目のあたりにしていたのである。そこには、心霊術や神秘学(オカルト)に関する人類の秘儀の数々が保管されているのだが。彼らはまた、なにも気づかずに、アガルタの王の都を通り抜けもした。 ・・・中略・・・
おそらく、こう付け加えても無駄であろうが(というのも、訪問者はそれを目にすることがあっても忘れてしまうのだから)、アガルタには粘度板文書の世界最大のコレクションの一部があり、そこに住む動物の中には鋭い歯を持った鳥や、六本足の海ガメがおり、一方、住民のうちの多くの者が二股に分かれた舌を持っている。
この忘却の彼方の国アガルタは、小さいが強力な軍隊ーーアガルタ聖堂騎士団、またの名アガルタ同盟ーーによって防衛されている。

『世界文学にみる 架空地名大事典』講談社刊 アルベルト・マングゥル & ジアンニ・グアダルーピ著 より



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