2009年8月27日(木)  幸福の街(まち)

「ボルト世界新2冠」と陸上の世界選手権200mのことが一面に大きく載っていた。
その夕刊に池沢夏樹さんのインタヴュー記事があった。「新 幸福論」という見出しだった。

― 池澤さんのフランスでの生活も長くなりました。日本はどう映っていますか。

池澤 成田空港に着いてエスカレーターに乗ると、「黄色い枠のなかにお立ちください」とアナウンスが流れる。初めて乗る人はいないはずなのに。街に出ると、トラックが左折する時に自動音声が「左に曲がります。ご注意ください」と大音量で延々と繰り返す。あれは無礼ですね。気をつけなければならないのはまず運転手の方。過去に巻き込み事故があったからでしょうが、騒音が「安全」の一言でまかり通って誰も反論できなくなっている。日本は見知らぬ者同士の距離が他の国より遠いと思いますね。小売店がスーパーとコンビニばかりになったのは、みんなが他人との会話を嫌ったからですよ。

― フランスはどうですか。

池澤 僕は朝市で食材を買うけれど、1週間に3回立つ市場は会話と商品の両方を手に入れる場所。1人暮らしのおばあさんが「今日は孫が来るからハム3枚ちょうだい」と頼むと、店主はハムの大きなかたまりのから3枚切り出す。その間、おばあさんは孫のことを延々と話す。後ろで行列して待っている人の中から「でも孫にお小遣いを巻き上げられるんでしょ」とからかいの声が飛ぶ。おばあさんは笑顔で「いいんだよ。お金はあるんだから」と答える。

― 日本は会話不足ですか。

池澤 喋ることは幸福感につながる。昔から隣人との仲は言葉で媒介されてきましたね。けんかや対立も含めた交流があった。日本人はいつからこんなに話下手になったのかな。外に出るときは仮面をかぶり、見知らぬ人と話さない。コンビニの店員のマニュアルしゃべりは、ここにいる自分は本来の人格ではなく、職務上だけの仮の姿だとアピールしている。本来の自分を出さず、名もなき者でいる方が楽なのでしょう。
(このあとも池澤さんは日本人と幸福について興味深いことを語っておられるが、それは省きます)。

どういう話の流れだったのかは忘れたが、先月のワークショップで、やたらと気になる街の雑音について話そうとした。だからこの記事を読んで、同じようなことを考える人が、また存在したと思った。またというのは、すでにそれについての大御所がいるからだ。知っている人がいると思う。哲学者の中島義道さんだ。
ぼくは「やたらと気になる」のだが、ほとんどの日本人はあまり気にしていないと思われる街の雑音。それは池澤さんが指摘しているアナウンスの多さだ。
この話をワークショップでしようとしてやめた。中島さんのことを塾生たちに問いかけたら誰も知らず、ポカーンとした顔つきをしたからだ。その顔を見たら急に話す気が失せた。その日は塾生のひとり相原が欠席しており、全員が出席している時にあらためて話そうかという気もあった。
「騒音アナウンス」について、中島さんの考えは池澤さんの上を行っている。ぼくも常々似たことを考えていたから、十数年前、中島さんの本を読んで同調するところがあった。そして何故だか忘れたけれど、ワークショップのなかで急に話がそこに繋がってしまったのだ。塾生たちがあのアナウンスをどう思っているのか、何とも思っていないのか。それを聞き、話し合いたかったのだ。

会話についてぼくも池澤さんのような危惧を持っている。でも池澤さんが使う日本人という言葉は、東京人と言い換えるべきではないかとぼくは思う。

夏休みに学生たちを合宿で長崎に連れ出し、9月のゼミで長崎の感想を求めると、「また行きたい」「住みたい街」と彼らは嬉しそうに言う。事実、卒業後に再訪した女子学生たちがいた。否定的な言葉を並べる学生は、これまでにひとりもいない。
カメラを手に、あらゆる所を歩き回る。そうすることで学生たちは様々な発見をするのだ。
長崎は実に多くの顔を持っている。もちろん愉快なことばかりではない。しかしそれらが渾然一体となって訪問者を魅了する。なかでも大きな比重を占めるのが、気さくで、親切で、おしゃべりで、人なつっこい長崎人の人柄だと思う。長崎には「池澤さんのフランス」そのままの光景がある。いや、それ以上かもしれない。しばらく行かないと「長崎に飢える」のはそのせいだ。
「たまたま知り合った人のお宅でお茶と菓子をご馳走になりました。こんな経験は初めてです」
合宿の間に学生がそんな話をする。長崎ではそれが特別な体験でないことを、ぼくはよく知っている。池澤さん流に言えば、学生たちは長崎で幸福を感じたことだろう。
そういう土地は他にもある。例えば大都市でも大阪は東京とまったく違う。フランス(パリ)の治安の悪さを考慮すれば、日本の方が心地よい。

会話不足という池澤さんの言葉を読みつつ、Noteを読んだ人から反応がないのも同じだなと思う。これについてぼくはすでに達観というか、諦めている。もう大きな流れができているのだ。反応する人と、しない人。行動する人と、しない人。かつて『書を捨てよ、町に出よう』と寺山修司さんが言ったのは、少し意味が違う。そう思いつつ、しかし寺山さんの先見をつくづくと思う。

つい先日、広島の山本という男性からメールがきた(Noteを読んでメールをくれる男性は実に貴重である)。内容は季節のご機嫌伺い程度のものだった。しかし彼とは以前に頻繁にメールのやり取りをしたことがある。今年2月に5年振りのメールがきたとき、うかつにも彼の名前をまったく忘れていた。
彼はぼくの写真についていろいろと語ってくれる。それがとてもおもしろい。人に様々な写真の見方があることをあらためて感じる。その上、彼の見方はとても鋭い。
あるいは彼は自分のことを語る。ぼくにメールすることで自分自身を見つめているかのように。
「返信は期待しておりません」。そう書いてあるから、とても気持ちが楽だ。
彼はバイク乗りである。あちこちをツーリングしていると、おもしろい人に出会い、そういう人から大きな影響を受けることがあるという。結局それなんだ。外に出ること。簡単なことにもかかわらず、人からそれが急速に失われている。

自分だけの世界なんて、あまりにも小さすぎる。以前にも書いたことがある。新しいものは常に外(自分以外)からもたらされる。
いい人間に巡り会えるのも才能の内だ。


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