2009年8月5日(水)  ノーベル賞学者と色黒男

「『日本人は世界の中で特に顔でモノを語らない。画一化された表情に兵士を思い浮かべる外国人もいる』と言われた。漠然と感じていたことだが平安貴族が顔をあらわにしないことを良しとした「顔隠しの文化」までさかのぼって学問的に解き明かしてくれた。」

今年亡くなった日本顔学会の副会長だった村澤博人さんを今朝の新聞の「悼む」という欄で取り上げていた。この一節はその記事を書いた記者が顔について生前の村澤さんに取材をしたときの話だ。

記事を最後まで読んでしまったのは、ぼくも日本人の無表情を普段から思っていたからだ。まわりの人間を思い起こしてみると、表情が豊かな人間をほんの僅かしか思い出せない。
平安貴族の「顔隠し文化」までさかのぼらなくても、日本人は確かに感情を表に出さないように教育されて来た歴史がある。貴族だけでなく、その後に現われた武士も心を読まれないために、常に無表情を保つ訓練を積んだ。嬉しくても悲しくてもそれを出さない武士という存在。そんな昔を持ち出すまでもなく、戦後でさえも、男は歯を見せてはならないと言われたものだ。大きく口を開けて笑うことはいけないことだった。口だけではなかった。
「女の目には鈴を張れ、男の目には糸を引け」
そんな昔の言葉がある。女は愛嬌がある方がいい。男は心の内を悟られないように、常に目を細くしていろという意味だろう。江戸時代の言葉か。顔のなかで目はつぶさに心が現れる部位である。

そんな文化が変化を見せたのは、やはりアメリカの影響が大きいのだろう。人が大声を上げ、歯を見せて笑い始めるのは、戦争に負け、アメリカの文化が氾濫するようになった時期を境にしていると思う。映画のシーンを思い浮かべるとよくわかる。日本映画のなかで、人がそんな笑いをするようになるのは戦後の映画からだ。三船敏郎は黒沢映画のなかでひょうきんな仕草や高笑いを見せた。
一方で三船はビールのCMでは苦々しい顔で「男は黙ってサッポロビール」と言った。音楽に合わせてステップ踏んだ三洋のCMや、しわがれた声で「二倍、二倍」と嬉しそうに言った丸八のCMの高見山とは雲泥の差がある。映画もCMも作られたイメージだ。しかし見る者は本質を嗅ぎとるものだ。三船は映画でいくら笑っても、実際はCMに近いあまり笑わない昔の日本人タイプだっただろう。まだまだ過渡期だったのだ。
三船敏郎よりもずっと年長だったぼくの父親は、たまに面白くない冗談を言いつつ、三船よりも厳格で無表情なタイプだった。例えば、靴を揃えて脱ぐことを口やかましく言い、食事のときは正座で座卓を囲むよう躾けられた。対照的に母は感情を素直に出す人だった。面白い話や馬鹿話を聞きながら育ったが、そのかわり叱るときの母は半端ではなかった。兄は父に似て、ぼくは母に似た。
母に似ているとはいっても、当然父の部分も持ち合わせている。馬鹿話をしているかと思えば、突然にクソ真面目な話を始めるところがある。

結婚してはじめの頃はちょっとおとなしくしていたが、互いに慣れてくるとぼくの馬鹿の部分が炸裂をはじめた。かみさんは驚いたと思う。でもすぐに慣れた。慣れてくれないのは、かみさんの親族だ。「雄二さんて、おもしろいわね」と義母はいつも言う。かみさんの妹の家にいってぼくが話を始めると、普段より控えめに話しているにもかかわらず妹は涙目で笑う。妹の夫は冗談を決して言わないから、笑いに飢えているのかもしれない。
義母や義妹は表情が豊かである。話に反応していることが表情でわかる。反応がないのは、若者たちだ。表情に出さず、口に出すこともしないから、彼らが何を考えているのかわからない。

日本人の無表情というものを体感したのは、初めての海外旅行だった。外国人の豊かな表情をいくら映画やTVで見ていても、それは実生活とは切り離されている。ところが実際にそういう人間と会って、ぼくは少し変わった。ニュージーランドという、どちらかといえば控えめな国民性の国でさえそうだった。滞在先の現地人の家の洗面台で自分の顔をまじまじと眺め、様々な顔を作った記憶がある。アメリカに行った時には、最初、引いてしまった。言葉が完全にわからないのに、人のパワーが異常に伝わる。表情や仕草のせいだった。

学校で眠たくなるような講義をしている講師を知っている。事実、学生の多くは居眠りをしている。無表情で、しかもお経のような言葉の羅列。一方で秋葉原の駅前や、デパートで実演販売をしている人の話に思わず足を止めることがある。この違いを思う。たとえ同じ内容であっても、表情や声のトーンが豊かな人の話が心に残るのは当たり前のことだ。
と言いつつ、関西芸人が出ているTV番組に、関西出身のぼくはイライラする。彼らは表情が豊かすぎるほどだ。しかしあのドギツイ喋りについていけない。その上、声がでかすぎる。彼らは勘違いしている。いや、彼らは目立ちたいだけなのだ。かなり気味が悪い。

「日本人は何を考えているのかわからない」
外国人からよくいわれるこの言葉が、ミステリアスな人間たちというニュアンスならまだいいのだけれど、褒め言葉でないことは明らかだ。無表情が気味悪がられているだけである。

去年ノーベル物理学賞を受賞した、ちょっと(かなり)変人の益川敏英さんは英語が話せない。受賞式後のスピーチで最初に「Sorry, I can not English」とたどたどしく言った。それが会場の人々の心をつかんだ。
ノーベル賞を受賞するほどの学者でありながら、英語を喋れないというギャップが受けたのかもしれない。でもぼくは益川さんの人柄だと思う。表情や喋りに、みんな魅了されたのだと思う。受賞スピーチを聞き慣れた人たちも驚いたはずだ。この人なら奇想も頷ける。しかもそれをもっと妙な方向にどんどん進めていけると聴衆は納得しただろう。科学やアートとはそういうものだ。極論をいえば、人並みを大きく外れたものがなければ成立しない。

写真学校で教えはじめた頃、素直だけれど馬鹿な学生がいた。いつも女か下ネタ話ばかり、ゼミの途中でぼくの話を遮ってそんな話を始める始末だった。合宿に行っても写真をほとんど撮らず、機材を他の学生に貸す有様で、写真は全くダメだった。酒の席ではいっそう多弁になり、ひとり舞台になった。今の言葉でいうと、KYにも近い。
とにかく、なぜ学校に入学したのか?というほど彼は写真に興味を示さず、落ちこぼれの見本のような男だった。様々なぼくの話をほとんど理解できなかっただろう。それでも最後までゼミを続けたのが不思議だった。
ダメ男の見本のような男にもかかわらず、夏でも冬でも色黒で、大きな目玉をぐりぐり動かす、あの顔をたまに思い出す。
彼の果たした役割をぼくは大いに認めるのだ。決して写真でゼミを盛り上げた訳ではない。しかし彼がいたことでぼくはとても救われた。学生たちの反応がなく、息詰まり、下手をするとシーンとなってしまうゼミを、彼は何度も救った。自分でも気がつかずに彼はバランスウェイトの役目を果たしてくれていた。お陰でゼミは意外と盛り上がりを見せた。
彼の魅力も人柄であり、あの表情だったとつくづく思う。疲れるからいつも一緒にいたくはないけれど、こういう男は世の中に必要である。年を追うごとにこんな学生はいなくなった。
もう30代後半だろう。今でもまだ真っ黒で、与太話をしていてほしい。


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