2009年7月25日(土)  57回目の夏

久しぶりに夏が帰ってきた。
14日の梅雨明け宣言は平日よりも6日早かった。しかし夏は3日間ほどで終わり、梅雨に逆戻りしたような天気が昨日まで続いていた。あのまま夏が来てしまったら、長い夏になるはずだったから、ぼくはホッとした。アメリカ東海岸のNYでは、暑さは6月頃から始まり9月まで続く。しかもNYの夏は東京よりも暑いと思う。その最中に停電があったのは何年前のことだったか。作動しないエアコンのせいで多くの人が熱中症で亡くなった。
梅雨は嫌いではない。少なくとも日本は梅雨のお陰でNYのような4ヶ月に及ぶ暑さを過ごさなくてもいい。

鹿児島と東京だけが梅雨明け宣言され、他の土地では長雨が続き、かなりの被害も出ている。そんなニュースを見ながら、今年は写真学校のゼミ合宿に行かなかったのは幸いだと思った。おそらく毎日雨にたたられただろう。昨日のニュースでも23と24日の長崎は大雨だったと伝えていた。
毎年、夏休みになると写真学校の学生たちと7月20〜25日前後に長崎で合宿をする。そのころ九州北部はちょうど梅雨が明ける。雨の東京から飛行機に乗り、着いたら長崎はかんかん照りということが通例だ。長崎では毎日外を歩くから、帰る頃にはみんな真っ黒になる。ところが帰京すると梅雨のまっただ中で肌寒い。そんな年もあった。

以前は100人もいた学生(夜間部の2年生)が今年は7人しかいなくて、ぼくのゼミはそのあおりを受けて今年は開講されなかった。ぼくのゼミを選択する学生がまったくいなかったのだ。残念だった。授業が始まる4月以降になると、気持ちが少し落ち込むかなと思っていた。
ところが逆だった。心がとても楽になり、清々としている。これは偽りのない正直な気持ちだ。それはゼミがいかに負担であったかを物語っていた。写真を撮ってこない。反応がない。考えない。知識がない。アートを志す者が持っていなければならない最低のラインをクリアしない学生たちに、ぼくは苛立ちながら授業を進めていた。その苛立をゼミがなくなってから痛感したのだ。
6月の合評会に出かけ、帰り際に校長とその話をした。
「学校に来ないことが、こんなに楽だと思いませんでした」
「楽ばかりでも、いけないでしょう?」
「他でも若者たちと接していますから・・・」

写真学校もワークショップもそろそろ潮時かなと思う。若者たちと接することに疲れを感じるのだ。肉体的な疲れではなく、精神的なものだ。何かに全身でぶつかっていく。後先のことを考えずやりたいことにひたすら突っ走る。そんな向こう見ずな若者がいない。それが若者の証明であり、特権であるにもかかわらず。
彼らはあまりにもひ弱で、少しの困難で簡単に諦める。野望がない。
そんな若者たちに面白みを感じない。自分の若かりし頃とのギャップが大きすぎる。そしてそれは年々増していく。学生だけではなく、かつてワークショップに参加していた30代40代もそうだった。考えない。意欲に欠ける。人間が小さくまとまり過ぎている。
市井の人間ならそれでも何とか人生を全うできるかもしれない。しかしアートを志すなら、それではいけない。
これはぼくだけの思いではないらしい。小林のりおさんと話していると、あまりにも似ているといつも思う。

学校の教師がそれに拍車をかけている。学生に媚びるような教師が、どこの学校でもやたら目につく。学生のご機嫌取りに終始している。やさしいことと甘やかすことは、全く別物であることを彼らはわかっていない。

以前にも書いたことのある、6年ほど前の写真学校のゼミ生を思い出した。
後期の途中から欠席が目立ちはじめ、写真も撮らなくなった二人の学生がいた。退学するのかと思い確認したら、二人とも卒業したいと言った。残念だけれどそれは無理な話だ。仕方なく救済策として、ふたつの写真作品の提出を課した。それ次第では卒業させようと思った。
写真を見て、一人にはOKを出した。もう一人には留年を伝えた。たかが写真学校である。卒業証書にそれほど価値があるとは思わない。だから卒業を認めようかと思った。しかしぼくは彼を突き放した。あまりにも写真がひどすぎる。世間はそんなに甘くないことを示したかった。また真面目な多くの学生に示しがつかない。

翌年、ゼミの前に教室で弁当を食べていたとき、その男が現われた。留年させられた恨みをぶちまけに来たのか。彼は「少しいいですか」と言い、机の角に座った。殴り掛かって来たときの応戦を覚悟して、ぼくは弁当を食べ続けた。
「先生に留年させられた訳が、やっとわかりました」
拍子抜けがした。
もし学校を続けるならば、再びぼくのゼミを選んでも仕方がない、というぼくのアドバイスを受けて、その年、彼は他のゼミで学んでいた。留年とわかった時点で学校を辞めるかもしれないと思っていたから、ちょっと驚きだった。
他のゼミをとってみて、初めて様々なことが理解できたと彼は言い、ぼくのゼミの時間をもっと大切にすべきだったと続けた。それを伝えたくてわざわざやって来たのだ。
「ありがとうございました」
最後にお辞儀をして教室を出ていった。

その年の卒業式で彼はやはり報告に来て、この一年は面白くなかったと言った。彼が無為に過ごしたその一年を思ったが、その一年があったから、彼はぼくのゼミを理解できたのだ。
写真学校で留年させたのは彼だけだ。そのたった一人がそんな学生だったことを幸せに思う。下手をすれば中央大学の教師のように逆恨みされ、刺し殺されている。

東京ではまだ蝉の声を聞かない。長崎では大雨の中、クマ蝉が鳴いているのだろうか。今日、偶然にも長崎の美術館から「東松照明展」のメールがきたけれど、雨のことも、もちろん蝉のことも書いてなかった。
あと何度、夏を迎えることができるのだろう。


 

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