2009年6月30日(火)  記憶とメモ

5日前の新聞に砂守勝巳君の死が報じられていた。普段は死亡記事などそれほど意識しないのに目に止まったのが不思議だ。ぼくと同い歳の写真家で、癌だった。
人は生い立ちがそのアイデンティティーの形成に大きくかかわることがある。彼はことさらそうだったかもしれない。沖縄でフィリピン人の父親と日本人の母親の間に生まれ、長じてからは大阪に住み、プロボクサーとなった。その彼がなぜ写真の世界に身を置くようになったのか。聞くことなく彼は死んだ。
ぼくと同じように若いときに両親を亡くしていた。そのせいなのだろうか。生まれた沖縄、両親を亡くした奄美、父の島フィリピンで写真を撮り続け、それは『漂う島とまる水』として結実して、土門拳賞を受賞した。
いつどこで知り合ったのか、全く覚えていない。覚えているのはぼくから話しかけたことだけだ。浅黒く、いかつい風貌が目に浮かぶ。澄んでいるけれど、人の心を射抜くような眼をしていた。話すとき、彼はその眼で常に相手と正面から対峙した。その姿に恐れをなす人もいたと思う。ただ、その風貌に似合わず、人なつっこく、やさしい側面を持っていた。そのギャップにぼくは心を止めたのかもしれなかった。
写真は彼の人間性を彷彿とさせた。とにかく迫力がある写真は、その裏にある一途な行動力を感じさせた。迫力だけでなく、ねっとりと体にまとわりつくような空気が写真から感じられた。まっすぐな視線。強いだけでなく、しっとりとした写真はチグハグというよりも、それが彼の写真の魅力であった。
彼は大阪の下町を好んだらしく、いくつかのシリーズを上梓している。それらに心のブレはなく、一本筋が通っていた。
まだまだ若かった。惜しみもせず、人生を早足で駆け抜けすぎたような気がする。しかし彼はそう生きたのだ。


今月は武蔵野美大と写真学校から声がかかり、相次いで出校した。
ムサビの3年生はとてもおとなしかった。質問をしても反応がない。ぼくが一番イヤなパターンだ。写真もそのままだった。迫力が全くない。去年の3年生は面白かった。このまま行けば先が楽しみに思われる学生が、多くはないけれど確かにいた。
写真学校(東京綜合写真専門学校)では1年生と2年生の写真を見た。貼り出された学生たちの写真を、校長を含めた3人の講師が講評していくから合評と呼ばれる。入学して僅か3ヶ月ほどの1年生の写真は、期待していなかったのに意外におもしろかった。先が楽しみに思える女子学生がいた。2年生は3人しか作品を持ってこなかった。そこに2年生の現状が垣間見える。ただ、一人の男子学生はやる気満々で、写真もノリノリだ。それでいいと思う。いや、そうでなければだめだと思う。ちょっと独り善がりの思考なのだが、性格がポジティブで、ぼくたち講師の話には素直に耳を傾けるところは他の学生も見習うべきだろう。上達するにはそれしかない。若さというのは、恥をかくことだ。恥を恐れていては何も始まらない。
久しぶりの学校で、朝から夕方まで学生たちの写真を見続けると、さすがに疲れた。

砂守勝巳のような男は、なかなか出てこないだろう。ふたつの学校だけの話ではない。世間の若者たちに覇気がない。
ただし、ぼくがショボクレているかと言えばとんでもない。今年度のワークショップが一段と充実し、面白さを加速しているからだ。ふたつの学校の学生たちがもしぼくのワークショップに来たとしても、話についてこられるだろうかと思う。きっと無理だろう。内容の難しさもさることながら、考えることのできない若者が多すぎる。ワークショップはぼくからの一方通行ではなく塾生の発言も求めるから、発言できない今の若者には辛い時間となるだろう。

愛知県からはるばる毎月やってくる牧という男は建築家である。写真は好きでやってきた程度だ。だから、彼はぼくの話に必死で耳を立てている。しかし基礎が出来ていないから、わからないものはわからない。子どもにいきなり微分を教えるようなものだ。彼のいいところは、その必死さだ。
写真はそれだけで通用するものではないけれど、必死とは力である。自分を何かに向かわせる源だ。だから彼を心配していない。頭のいい男だから、そのうちに話がわかるようになるだろう。写真と思考という関係が彼のなかで繋がれば、もちろんいい写真も生まれる。

懸命さという意味では、菊地も忘れてはならない。彼は毎回、ふたつの大きなテーブルに並べきれないほどの写真を持ってくる。それだけで彼の今がわかる。量だけでなく、質が高い。今月の彼のワークショップ・レポートは面白かった。そして今日も写真についての決意のメールがきた。
彼はノッている。いまの彼に心配という言葉はいらない。ただふたつ。味覚と記憶力を除いて。
味覚についてはぼくが筍を振る舞ったときに、うすうす見当がついた。何度も書く。料理とアートは同じである。記憶がおぼろげなことは、今月のワークショップで露呈した。

ぼくは学校で、どこかの大学の教師のように毎年同じ話をするわけではない。ただ、これだけは毎年話さねばならないという大切な話がある。そのひとつが「タイトル」についてのレクチャーだ。自分の写真を自分でわかっている人は的確なタイトルを付けることができる。ところが若者たちは写真とタイトルの関係がわかっていないから、独り善がりのメチャメチャなタイトルだ。タイトルは難しい。それは写真を良くもするし、ダメにもする。だから様々な例を挙げながら、この話にとても時間をかける。
今月のワークショップでタイトルについて触れたとき、菊地に関連の質問をした。ところが彼は何も答えられない。あまりの醜態に、学生時代にぼくがタイトルについて話したときの内容を、覚えている限り述べるように言った。彼がかろうじて思い出したのは、マルセル・デュシャンという名前だけだった。ぼくが何のためにデュシャンの話をしたのか、肝心なところを忘れてしまっている。しかもデュシャンは話の一部に過ぎない。ぼくはもっと多くの例を挙げて、タイトルの話をした。それがすっかり抜け落ちてしまっている。
ぼくは納得した。彼の写真の溜め息が出るほど良くないタイトルの理由がそのときわかった。ぼくがするタイトルの話はタイトルだけにとどまらず、写真論、あるいはアートを論ずることに繋がっていくはずなのに、彼のなかには何も残っていない。

水を欲しない者に、一生懸命に水をやっていた自分を認識する。彼だけではなく、ほとんどの学生がそうだったろう。空しさを感じるのは、こういうときだ。
だからぼくはメモすることの大切さを話す。自分を振り返ると、メモしなかったことの馬鹿さを嘆くことがよくあるからだ。そのとき重要でないと思ったことが、大切な話であったことに後で気づいてももう遅い。抜群の記憶力がない限り、誰かの一字一句を思い出すことなど出来ない。未熟さ故に珠玉の話を理解できなった。メモすら残さなかった。
ぼくはむずかしい話の後で、くだらない話や下ネタ話を平気でする。厄介なことに学生や塾生はそちらの方を覚えていたり、メモしている。
人とはそういうものだ。
ところで、人の話を漏らさず書き取ることに終始するが故に、話を受けてその場で考えることが欠如するのはもっと危険なことだ。そういう人間に限って、ノートに残したことで安心してしまう。ノートに書き記すという行為が大切なのではない。つまりそれがフィニッシュではないのだ。重要なのは、そこから考え始めることだ。
人は書くことで思考を補強する。読むことで記憶を甦らせる。

遠い昔のノートにたまたまメモ見つけたとき、それは自分の筆跡にもかかわらず謎めいた暗号のようで、想像力をかき立てる。そこに若き日の未熟な思考の痕跡を読みとり、青いなぁと思う。でもそれでいいのだ。


 

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