2009年6月15日(月)  死を想う

このひと月ほどの間、少し心が乱れていた。
予期したこと、しないことが入り乱れて押し寄せたからだ。

そのひとつにかみさんの父親の死があった。年に一、二度顔を会わせる程度のつき合いだった。しかしその人の死が強いものを残すのは、最期を看取ったからだろう。
容態がよくないという電話があったのは、夕食を済ませた直後だった。駆けつけたとき、すでに意識はなかった。父親の荒々しい呼吸、というよりも吐息だけが聞こえ、義理の妹はしきりに呼びかけていた。ぼくも名前を告げて、「わかりますか」と大きな声をかけたが、何も応えはなかった。病院に連絡し、看護士の到着を待つ間、見守ることしか出来ない。
1時間後くらいだろうか、連れ合いと子どもや孫のすべてに看取られて9時過ぎにこと切れた。人の臨終のときを見届けたのは初めてだった。

ぼくは28の歳に母親を、32で父親を、そして40のときに妹を亡くした。
そのときのことが思い出された。ぼくはそのいずれも、臨終の際(きわ)に立ち会っていない。離れた土地に住んでいたから間に合わなかった。だから思い出したのは葬式と、その前後のことだった。

母の訃報を受け、ひとりでいることができず、友人の下宿に向かった。そこには偶然もうひとりの友人もいた。
「母が死んだ」
そう言って、ぼくは母のことを話しはじめ、号泣した。後にも先にもあれほど泣いたことはない。黙って聞いてくれたふたりには今も感謝している。号泣の理由は、細かい事象を積み重ねなければわかってもらえないだろう。だからことさら触れるつもりはない。母は脳卒中で倒れ半身不随となり、7年ほども寝たきりだった。そして母に何もしてやれなかった自分。こう書くだけが精一杯だ。
人の死の瞬間に、幸せも不幸もないのではないかと思う。死に至る様々な状況があるだけだ。しかしその状況が、残された者の心を襲う。晩年の母を思うとき、許しを乞う気持ちは今でもある。
車で葬儀に帰郷するぼくを友人たちは心配し、200kmほどの道を交代で運転し、ぼくを故郷へ送り届けてくれた。そのふたりの行為から、憔悴したぼくの姿が想像できる。
あれだけ泣いたからだろうか。ぼくは葬儀の間、涙を一切流さなかった。

両親や妹の死を思うとき、義父が病を得て死に至るまでの時間は幸せに見えた。ぼくは父や妹の死に際して、母のときほど涙を流さなかった。しかし母よりも深い不幸を嘆いた。

父が死んだとき、当時住んでいた愛知県で懇意にしていたお寺のお庫裏さん(住職の奥さん)から、お経を上げてあげなさいと言われた。
「亡くなった人の魂には、肉親のお経しか届かないのよ」
真実かどうかを超えて、その言葉は重かった。住職から父と母への為書きをした般若心経の経本を授かった。以来、どれだけお経を唱えてきただろう。長くはないお経だから、続けるうちに諳(そら)んじることが出来るようになった。肉親のためだけでなく、知人の葬儀に参列したり、お悔やみに行くと唱える。お経は宗派によって違うのだけれど、般若心経というお経はどの宗派でも唱えることができる。
若い頃、母親のようにお世話になった長崎のきくえおばさんはカトリックである。その墓前でも、ためらうことなく般若心経を大声で上げる。普通なら常軌を逸した行為としか映らない。でも、おばさんは宗教の違いなど笑い飛ばすような心の広い人だったし、人を想う心は宗教という枠を超えるはずだ。軍艦島に渡ったときも必ず唱える。
宗教というものに深く帰依しているわけではない。死者に手を合わせるという行為の延長として、自然に般若心経が出るのである。

自分の犬のように思っていた近所の紀州犬「ごんぢ」が死んだのはもう3年前のことだ。5月の連休明けの命日の夜は、線香の煙とお経で終わる。日頃からその犬の思い出を笑いと共によく話題にする。
父と母のことを、ようやくそんなふうに話せるようになった。妹の死を受け入れる気持ちには、まだなれない。


 

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