2009年5月20日(水)  引力

阿修羅の興奮は続いている。阿修羅だけが素晴らしいのではなく、阿修羅を含めた八部衆がとてもいい。
あらためて、日本にはまだ見ぬ仏像が数多くあることを思い知った。それにしても外国に流出した多くの名品が返す返すも恨めしい。明治の廃仏毀釈という愚かな政策のせいで、国宝となるべき名品が見捨てられ、国外に流出した。それらは今、ボストン美術館やメトロポリタン美術館など海外でしか見られない。ただ、そのまま日本にあってもそれらは燃やされたり、廃棄されてしまったかもしれない。それを考えると複雑な気持ちになる。
それらを評価し、買い取り、国外に運んだフェノロサや岡倉天心の行動は、日本にとって正しかったのか、そうでなかったのか。

帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトも、設計費として得た莫大な報酬を日本の美術品の購入に充てた。だから彼の所持する日本の美術品だけで展覧会が出来るほどだった。これは誇張ではなく、数年前に東京でその展覧会が実際にあった。ライトはそれらの美術品を大切にした。素晴らしさがわかるからだ。価値を理解できない日本人が持つよりもいいのかもしれない。
一流といわれる人は、目利きである。審美眼を持っている。ジャンルが違っても優れたものを認識できる力がある。

阿修羅展を見終わり、せっかくだから本館の常設も見た。そのとき、館内放送があった。
「静岡からお越しの○○さま・・・・」
それを聞いた隣のおやじが言った。
「静岡からわざわざ来ているんだ・・・」
当たり前だろう。こんな機会は滅多にないのだから。思わずそう言いそうになった。
静岡など近い方だ。興福寺の地元の関西からも見に来ている人がいるという。それは前回のNoteに書いたぼくの理由と同じだろう。(九州の人は来ないはずだ。なぜならこの後福岡に巡回するからだ)。

それにしてもと思う。これだけの人を惹きつける引力。

人にも引力がある。
話しているとき。本を読んでいるとき。テレビで見ているとき。何だかわからないけれど、惹き付けられることがある。その人に魅力があるのだ。子ども、若者、老人。歳に関係なく、そういう人は存在する。
そういう人と巡り会うとドキドキする。あるいは愉しくなる。ぼくにとっては難しい話をする人よりも、頭(思考)を自由にしてくれる人が一番嬉しい。そういう人は自分だけでは気づかなかった思考の端緒を与えてくれる。(ときには難しい話が頭を自由にすることもある)。
しかしながら、魅力のある人は多くない。とてつもなく希である。
いい人はけっこういるが、それはいい人にすぎない。魅力ある人とは違う。

今年度からワークショップは2人増え、しかも今月からまたひとりが加わった。牧というその男はわざわざ愛知県から通ってくる。ワークショップの参加資格は東京近在としているが、彼の熱意を感じて特別に参加を認めた。
時間とお金を使って東京まで来る意味があるのかとぼくは彼に問うた。それでも参加したいという彼の言葉にぼくは折れたのだ。何度かのメールのやり取りの中でぼくはこう書いた。

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ワークショップはそれぞれが写真について考える場であり、
塾生に対して、ぼくが答えを話す場ではないということです。
だから君のように、ワークショップに対して過度の期待を持っている人間には、
ワークショップは向いていないと思う。

ワークショップに参加すれば、いい写真が撮れるようになる。
ワークショップに参加すれば、写真がわかるようになる。

そんなことは、あり得ない。
それは自分次第であるからだ。

わざわざ毎月来ても、君にとってワークショップが有意義なものになるかどうかも
わからない。
ワークショップが有意義なものになるかどうかは君次第だ。

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彼は建築デザイナー(一級建築士)で、自分の事務所を持っている。既婚、四捨五入すると40歳になる。それでも新たな道を模索している。正直な気持ちを言えば踏み出すのが遅すぎたと思うけれど、結果がどうなるか、ぼくは知らない。誰も知らない。
その日の彼は見るからに緊張していた。ぼくはそれが気になった。しかしワークショップの後、ほどなくして届いた礼状、兼、レポートには参加した喜びと熱意が綴られていた。
それは写真学校の学生や、卒業してワークショップに参加している塾生たちからは、あまり感じられないものだった。彼らにはある種の慣れがあるように思えた。今の牧のような初心を忘れてほしくない。

彼を思い出したのは、博物館の館内放送を聞いたからだ。ぼくにも少しは引力があるのだろうか。
今月で橋本がやめ、ワークショップは男ばかりになった。
哀しいけれど、ぼくには若い女を惹きつける引力はないようだ。


 

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