2009年5月17日(日)  死ぬまでに見ておきたかったもの

前回行ったのがいつだったか忘れてしまうほど久しぶりの上野公園だった。JRの公園口に出たとたんに人の波だ。まさかこの人たちがすべて・・・と思ったのは、さすがに杞憂だった。しかしぼくたちの目指す方向に歩く人は多かった。平日にもかかわらず東京国立博物館の平成館前には列ができ、50分待ちの表示があった。出直そうかと思ったが、雨の日でもない限りいつ来てもおそらく同じだろう。
列を観察すると、50歳を超える人たちが圧倒的で、じいちゃんばあちゃんも多かった。40歳以下と思われる人は一割にも満たない。「若い人も見るべきなのに」と、ぼくはかみさんにつぶやいた。

阿修羅(インド名はアスラ)展に行った。この機会を逃せば東京で見られる機会は、次にいつ来るかわからない。おそらく数十年、もしかしたら百年はないかもしれない。何しろ阿修羅が東京にやってきたのは半世紀ぶりなのだ。1300年という興福寺の歴史のなかで阿修羅が寺の外に出たのは、数えるほどしかない。
本当は興福寺に行くべきだ。本来あるべき場所で対面するのが正しいことはわかっている。しかし興福寺に出かけても、元々安置されていたお堂に阿修羅は今いない。新しい展示室にガラスを隔てて鎮座している。もし元のお堂にあったとしても、暗くて細部は見えない。
とりわけぼくの心が動いたのは、仏像の後ろが見られるという今回の展示方法にあった。興福寺では背面は見られない。阿修羅だけでない。日本中のほとんどの仏像は背面が見られない。厨子に納められていれば尚更だ。
仏像は拝む対象である。人は正面から仏像と対峙する。だから正面だけを見られるように安置されている。しかし立体だから側面も背面もある。仏師は当然ながら、正面だけを重視して作ったわけではない。それならばすべての位置から見てみたい。人の心は背中に出る。仏像も同じだと思う。
美術館で彫刻を見るとき、正面を見て終わりという人が多いけれど、ぼくはいつも様々な角度から見る。特に背面をしっかりと見る。いいものは裏側が素晴らしい。

そういう意味で感激したのは新薬師寺の十二神将を見たときだ。
新薬師寺は小さなお寺である。その本堂の中に、あんな神像が存在するとは思わなかった。意表をつかれたからこそ、それは一段と素晴らしく見えた。しかも触ろうと思えばそれも可能なほど間近である。そのお寺では裏側も見られるように像が安置されていた。そんな寺は初めてだった。阿修羅に会うまでは、その十二神将こそぼくが見た最高の像だった。
25年前はそうだった。しかし今、十二神将は別の陳列棟に移され、あの古いお堂にないという。いい時代に行ったものだと思う。

阿修羅だけでなく、八部衆のすべてが圧巻だった。(阿修羅は八部衆のうちの一体であることを、ぼくは今回初めて知った)。
仏像に向かうときの気持ちではなく、生身の人がそこにいるような感覚があった。射すくめられるような、それでいて今にも話しかけて来るような気がする不思議な八体の像だった。

いわゆる仏像や神像というものは、文字通り仏や神の像である。だからそれらは一目見て我々人間とは全く違う風貌をしている。仏・神像はそう現さねばならなかった。神々しく、畏敬を持つ存在でなければならなかったのだ。ところがこの八部衆は人の似姿ともいえる風貌を持っている。
そこには仏や神という認識に対する大きな転換がある。思想の飛躍と言ってもいい。さらに言い換えれば、この八部衆は、仏像というものが持つはずの概念を破っている。とんでもないことをやってのけているのだ。
これらの像は奈良の工房で作られたものだという。その仏師たちの仕業なのか、それとも仏師たちを指揮する人物(作らせた人物)の為せる技なのか。
この展示を見た後、隣の本館の常設展を見た。そこには近代に描かれた絵巻物があり、そのなかに阿修羅とおぼしき姿を見かけた。ぼくは戻って説明書きを確認した。やはり阿修羅だ。しかしそこにいたのは、つい先ほど見た阿修羅とは別物のような髪を振り乱したまさに鬼の形相だった。それが古(いにしえ)から現代までの阿修羅の概念である。阿修羅は仏に仕える戦闘好きの魔神なのだ。

八部衆がとても良かったから、その印象をとどめるために、ぼくは他の展示をほとんど素通りした。
外に出ると、上野は暮れはじめていた。行列は半分ほどになっていた。その日は閉館時間が20時だった。仕事を終えてから駆けつける人たちは、昼間と客層が逆になったほど若い人が多くちょっと安心した。「この時間にすれば良かった」と言ったら、「もう一度見てくれば・・・」とかみさんは言った。本当にそうしたくなるほど女性が多かった。

阿修羅には人を引きつける力があるということだ。それはミロのヴーナスやモナ・リザに匹敵する。あるいは超えていると思う。世界の宝といわれるものはそういう力を持っている。

空いている時に、もう一度行ってゆっくり見たいものだ。それにしても阿修羅の展示室のおしくらまんじゅう状態は何とかならないものか。新型インフルエンザの感染者がいればと考えると怖ろしい。
これでもう死んでもいいとは思わないけれど、死ぬまでに見ておきたかったものを見た。


 

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