2009年4月30日(木)  春の食

数日前に腰を痛めた。1階の段ボールの山を片付けていて、どうもやったらしい。翌日とその翌日は何も出来ないほどひどかった(パソコンに向かうのも苦痛で、前回のNoteは傷み痛みの中で書いた)。薬とコルセットのお陰で少し楽になり、まともな生活が戻ってきつつある。ただし、まだ油断は禁物だ。したいことはあるのに、今日もおとなしくしている。とても暇である。

さすがにちょっときつかったが、ときを同じくしてまた筍を煮た。短時間なら姿勢をそれほど変えない立ち仕事の方が楽である。わが家では筍はぼくの当番ということになっている。昔「今後、筍は全部ぼくがやる」と宣言してしまったので仕方がない。
今年になって六度目の筍は、かみさんが会社の同僚から2本もらってきた。そろそろ季節も終わりだから、この頃の筍の味はガサツになる。繊維が強く固く、繊細な味がなくなってしまうのだ。あまり期待していなかったのに、この千葉産の筍がとてもうまかった。今年の筍前線はいつもより遅れて北上しているらしい。おそらく今年最後になる筍を、おいしいもので締めくくることが出来た。
3月中旬から下旬の出始めの筍は小ぶりだけれど、その時期を逃せば味わえないものをひとつ隠し持っている。それがどんな味なのか。ここで書いてしまうよりも、一月半ほどの味の移ろいを食べて実感してほしい。3月と4月にそれぞれ食べればわかると思う。
ぼくが筍にこだわるのは、好きだからだ。うまいからだ。そして食材に旬というものが次第に無くなりはじめているからだ。今日も駅前の八百屋でスイカを見た。高級品を扱う店でなく、普通の町の八百屋だ。そんな時代にあって春の食材はこの季節でなければ味わえず、しかもうまいものが多い。その代表のひとつが筍だ。

先日、筍のことをNoteに書いたら、何人かから届いたメールにオマケのように筍のことが書いてあった。
筍の煮物を持ち帰った相原は、こんなことを書いていた。

「実はそれほど筍は好きではないのですが、
(正確に言うと堅くなった筍が好きではないというかとてつもなく苦手なほどです)
先生のところでご馳走いただける筍はとても柔らかくて、
もちろん味付けも、筍の風味を活かした絶妙な味付けになっていて、
毎年楽しみにしています。」

ぼくの味付けは彼には少し薄いはずだが、こういう感想を読むと嬉しくなる。穂先の部分が一番うまいと書いたぼくのNoteを読み、『美味しんぼ』という漫画にも同じことが書かれていたことを思い出したと驚いていた。食べてみればすぐにわかる。味覚に敏感な人ならば。

生筍を買って来て調理したが、灰汁(アク)抜きが十分でなく、苦みが強くて・・・。ある女性からこういうメールも来て、思わず笑った。筍は灰汁抜きが決め手になる。灰汁が残れば、苦みというよりも、「えぐ」すぎて、舌がしびれ、とても食べられたものではない。しかし灰汁が抜けすぎると、筍本来の風味も一緒に抜けてしまうから、その案配はとても微妙だ。筍は水煮(米ぬかなどで灰汁抜きのために煮ること)の後、性急にならず数時間そのまま冷ますことが肝心だ。調理はその後である。前に書いたことを繰り返したい。おいしいものを作るには、手間を惜しまないこと。

農家の人が販売している鮮度のいい筍を買い、筍ご飯にした、と書いていた女性もいた。確かに筍は鮮度が大切だ。置けば置くほど灰汁がどんどん増えていく。手に入れたら出来るだけ速やかに灰汁抜きを済ませなければならない。
次のような文章が続いていた。
「炊きたてご飯の仕上げにワサビの茎を細かく刻んで混ぜ、ご飯の上にも散らしてみました」
これが筍ご飯に実によく合ったと書かれていた。ワサビにちょっと心が動いた。人の嗜好は様々だから、自分の好みの料理を作ればいいと思う。でも自分の考えを書くならば、ぼくならそうしないだろう。筍の風味はそれほど強いものではないから、ご飯にすればますます味は消えてしまい食感だけになる。その上にワサビではワサビの風味が圧倒的に勝ってしまう。ワサビの茎はザックリと切って、おひたしか和え物など別の料理にしてほしい。単品料理にすることで、それぞれの味が楽しめる。
(本日、筍ご飯を作り、ぼくの考えを実証しました。予想通り、筍ご飯は風味が飛んでしまい、筍が生きない。ご飯にするなら味の強いアサリや牡蠣がいいと思う。しかもそれらを一緒に炊き込むのではなく、薄味を付けて炊き上がったご飯に調理したものをあとで混ぜ込む方が風味が生きておいしい。料理を作る人ならわかると思う)。
TVの料理番組では、筍の煮物に山椒を散らすなどという料理人もいるが、この人、本当にプロか?と思う。
筍を本当に味わうには煮物がいい。味付けは出来るだけ薄味、シンプルが基本である。相原が書いているように、そうしなければ筍の風味が生かせない。出汁(ダシ)は鰹節だけ。味醂も砂糖も使わない。もちろん市販の「本ダシ」など、どんな料理でも絶対に使わない。あれは本当の出汁ではない。

橋本は、ワークショップの休憩時間に出したケーキを気に入ったらしく、どこで売っているのかと書いていた。残念ながら、あれは京都でしか買えません。そういう意味でももっと味わってほしかった。

筍だけでなく、春の食材は山のもの、海のもの、様々なものが楽しめる。
蛍イカは近所のスーパーよりも、魚屋で売っているものの方が味が濃い。そのまま食べるだけでなく、パスタにするとうまい。
桜エビも絶品だ。かき揚げは、食べながら目をつぶってしまうほどである。
以前、静岡のはずれにある北欧家具のヴィンテージものを扱う店にたまに出かけた。あるとき、帰りに由比で桜エビのかき揚げを食べようということになった。由比は日本一の桜えびの町だ。駅前で客待ちするタクシーの運転手さんからおいしい店を三軒教えてもらった。一番お薦めの店は休憩時間で、仕方なく別の店を探し出して車を止めた。しかし電気が消えており、どうも休みらしい。裏口から出て来る人に尋ねたら、ちょっと考えた後「店を開けましょう」と言った。ぼくたちふたりのために。
油を暖め、食材の下準備が出来るまで由比の町を散歩した。店のそばの橋の上は風が抜けて気持ちがよかった。その店の心意気がそういう気持ちにさせたのかもしれない。腹を空かせて戻り、店に入ったとたんに漂う油の香りで腹が鳴った。
生、湯通し、かき揚げ。三種類はそれぞれ味も食感も違った。生はプリプリした身の甘さがたまらない。湯がいて塩をしたものは独特の風味がある。それぞれうまいのだが、かき揚げにしたときの香ばしさとザックリした歯ごたえは最高だった。それから桜エビの虜になった。
西から車で東京に帰って来るとき、時間が許せば由比に立寄りたいと思うようになった。二度目に行ったときはそれほど感激しなかった。わが家で作る桜エビのかき揚げが、十分にうまいことを知ったのである。
あの日以来、わが家では桜エビや白海老のかき揚げに挑戦した。それはまさに挑戦というにふさわしかった。パリッと揚げるのが至難だった。そんなかき揚げを作るには、衣の具合がとても微妙なのだ。しかし試行錯誤を繰り返し、わが家の方法を編み出した。それでも難しいことに変わりはなく、今でもそのときどきで出来上がりに多少の違いが出る。それでも食べながら思わず目をつぶってしまうほどうまいのだ。
今年はかき揚げを食べないままに季節が終わろうとしている。桜エビを見かけることが少なかった。

筍が終わると、空豆が待っている。
太い鞘(さや)をむき、中から空豆を取り出す作業をかみさんと競う。空豆はホタテ貝と炒めてとろみをつける。あるいはエビを使ってもいい。安いブラックタイガーで充分だ。それぞれの味と食感がとても引き立ち抜群にうまい。ホタテ貝に火を通しすぎないのがコツである。

料理もアートも想像力とひらめきだ。そして経験がものをいう。
その道の天才ではない限り、次のようなことが言える。味覚に敏感でなければ、つまり、うまいものをうまいとわかる人間でなければ、うまいものは作れない。アートもいい作品というものがわかる者にしか、いいものは作れない。どんな仕事も同じである。

季節を食べ物で感じることは、幸せだと思う。大切なのは、食材を味わうこと、誰かと一緒に食べること、そして作ってみること。
心に余裕がなければ、何も感じない。


 

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