2007年4月24日(金)  ネットの向こう側

ワークショップ基礎塾について、ある人から数日前にメールが届いた。

基礎塾のような取り組みを将来また再開してほしい。参加を申し込むつもりだったので、基礎塾開設が中止になったのはとても残念だった。ただ、基礎塾に応募しようとすることで、自分で様々なことを考えた。それは自分に新たな写真に対する思いを喚起し、自分には有意義なことだった。

こんな、基礎塾が開設されなくなったことの無念さが十分に伝わる長い文章が綴られていた。しかしその文章からは、自己中心的な匂いも少し感じた。彼女自身の様々な理由があったにせよ、参加の意思があったなら早めに応募してほしかった。最初の告知をしてから、中止を決定するまでの一ヶ月という日時はけっこう長い。
募集を中止した時点での参加希望者は微々たるものだったと書いた。正確にいうと、一人だった。ひと月の間にである。ぼくがやる気をなくすのも無理からぬことではないだろうか。これでもぼくは辛抱強く待ったつもりである。しかしそれ以上待っても無駄だと感じて、募集を中止した。
以前にも暗室ワークショップ開設を試みたことがある。そのときはもっと参加希望があった。しかし募集の条件に合わない人たちもいて結局開設をやめた。暗室ワークショップにしても、基礎塾にしても、一般の人を対象にするのはこういう機会以外にない。ちょっと張り切っていたのに残念だった。

ふと思った。開設中止後にメールをくれた彼女のように、参加を希望する人が他にいたかもしれない。だからその後、同じようなメールが届くかもしれないと思った。そういう人がある程度いれば、基礎塾を始めることもあり得る。
やはり来なかった。彼女のような人は他にいなかったのだ。
ひとりやふたりで始めても、面白くはならない。それは写真学校でも経験済みのことだった。せめて5人ぐらいの人がいなければ、盛り上がらないことは明らかだ。
彼女が参加を表明していても、結局は中止になっていたのだ。彼女には申し訳ないけれど、暗室ワークショップや基礎塾のような試みをやる気持ちは、もう完全に失せた。今後も勿論やらないだろう。二度もこういう経験をすれば、懲りるには充分だ。

ところで、気になることを彼女が書いていた。
反応がないのがネットである、と。
それは、ぼくの考えと相反する。反応がないのがネットだとすれば、ぼくは考えを大きく改めなければならない。
彼女は続けていた。ぼくのサイトのNoteを最初から読んでいる。今後もUPし続けてほしいと。

これらを読んで、却って空しい気持ちがこみ上げた。
反応がないのがネットであると書き、その一方でNoteを続けてほしいと書く。そんなものなのだろうか。
でもこれは多くの人間の思うところだろう。例えば、写真学校の学生や卒業生、ワークショップの塾生や元塾生でさえ、ぼくのサイトについての反応はない。
そのうちにUPをやめてしまおうかと思いつつ、彼女がメールをくれた事実を思う。

本当に反応がないのがネットなのだろうか。少なくともぼくはそう思わないし、外国人の反応も違う。
パソコンのネットワークの向こう側にいるのは、人間のはずだ。


 

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