2009年3月16日(月)  Adieu

合宿の帰り、車に同乗した橋本に馬鹿話をずっとしゃべり続けた。そうでもしなければ眠ってしまうと思ったからだ。橋本は大笑いしていた。
家に着くと、菊地のように倒れ込みはしなかったけれど、30分だけ眠った。ぼくはその日の夕方、写真学校の卒業式に出席しなければならなかった。

寝ぼけ頭のままで着替えをして、電車に乗った。最近はネクタイをすることがまったくない。唯一していた卒業式でも去年からやめた。それでも普段のぼくとはまったく違う洋服を着て、それ故の歩き方のぎこちなさを自分でわかっていた。嫌いな渋谷の街に降りたつと、歩き方は余計に妙になった。

東急の文化村に着いてエレベーターを待っていたら、前の男が振り返り「先生」と言った。ゼミ生の竹下だった。彼は卒業後、ワークショップに参加することになっている。やはり合宿に参加していたひとりだ。
「あまりにも疲れたから、出席をやめようかと思ったよ」
「ぼくも疲れて30分寝ました」
みんな同じだ。会場に着くと、校長の祝辞の真っ最中だった。会場に入ったばかりの所で田村彰英さんと話していたら、
「写真界は停滞しているから、君たちにはのような若者たちには今がチャンスだ・・・」
そんな校長の話が耳に入った。話があまりタイムリーではない。ぼくは10年も前から若者たちにそう言い続けている。溌剌として燃え立つような若い写真家が出なくなって久しい。写真の世界はあまり活気がない。それはアート全般にも言えるだろう。そういう時期だからこそ、活き(いき)のいい若者が突然現われれば、みんなが注目するのは目に見えている。そういう意味では大きなチャンスなのに、といつも思う。
熱気も意欲も乏しい若者が多い。もしあったとしても、やるべきことが中途半端なくせに、幻ばかり追いかけている。

今年の卒業生たちの写真はレベルが高かった。意表を突いたおもしろい作品があった。彼らに少しだけ期待をしている。ところで、卒業生から選抜した精鋭たちの作品を展示したはずのフジフォトサロンの卒業作品展はつまらなかった。そのあとで選抜展に落ちた学生たちの卒業作品展に期待しないで行ったら、そちらの方がずっと面白かった。

数人のスピーチが終わり歓談の場になると、ぼくのゼミ生のひとり、40代の石山が挨拶に来た。2年前のゼミ生で、研究科を卒業する男も入れ替わりやって来た。講師とは挨拶程度でほとんど会話をしない。ぼくは写真学校では外様(とざま)だから、この写真学校を母校とする講師たちをあまり知らない。普段顔を合わすこともないから懇意になることもなく、従ってぼくは孤立気味だ。話があまり通じず、しっくり来ない。ぼくに話しかけてくるのは、ここの卒業生の講師ではなく美大を出ているような人たちで、例外は田村さんなど僅かだ。

以前は卒業式に来るのが楽しみだった。
多くのゼミ生が次から次に挨拶に来て、彼らと様々な話をした。ゼミ生たちに囲まれて二次会に行った。ぼくのゼミではそれぞれの卒業生たちが在学中に撮った写真一枚をぼくにプレゼントしてくれることになっていた。ぼくと一緒に二人で写真を撮りたいと、女子学生の列が出来た。花束は好きではないけれど、全講師の中で一番大きな花束をもらい、ちょっと誇らしく恥ずかしく電車に乗ったこともある。夏合宿の帰りに、お世話になりましたと羽田で福砂屋のカステラをくれた学生たちは、卒業式では虎屋の羊羹をくれた。
みんな昔の話である。昔と言っても7年間しか教えていない。

式が終わり、エレベーターで一階に下りたとき、後ろから声がした。
「先生、一緒に写真を撮らせて下さい」
田村先生と話していたとき挨拶に来た、田村ゼミの小柄でかわいい初対面の女子学生だった。男子学生のカメラの前にふたりで立つと、彼女はぼくの右腕にそっと両手をまわして身体を寄せた。咄嗟のことに柄にもなく照れた。
こんなことは何年ぶりだろう。こんなことも最期かもしれない。
ふたつの思いが交錯した。というのも、写真学校の学生が激減し、来年のぼくのゼミが存続するかどうかは風前の灯だ。ぼくだけでなく、成立しないゼミがいくつか出るはずだ。今年最後の授業の帰り、もう学校に行くことはおそらくないだろうと予感し、腹をくくった。4月からまた出校することになれば、奇跡的なことだ。
辞めたいと思ったことが何度かあった。もう一年だけと思っていると次の学生たちはおもしろかった。そんなことの繰り返しでここまで来た。今年の学生たちは頭が良く、ゼミを愉しめた。それを思えばいい最後ではないか。

「全学生が雜賀ゼミをとるべきだと思う」
ゼミ最期のレポートに石山がそんなことを書いていた。
「雜賀ゼミはおもしろそうだ、と他のゼミの学生たちが言っています」
もうひとりのゼミ生・竹下はそんなことを常々話していた。少しニヤリとしながら、なるようにしかならない現実を思い知る。ゼミを選び、授業が始まると具体的な情報が学生たちの間を飛び交う。そのときになって彼らは気がつく。
でもそれでいいのだと思う。教師を選ぶのも才能の内だ。つまり、結局は自分の身の丈のゼミを選んでいる。人生にある種の達観は必要である。そう。なるようにしかならないのだ。誤解しないでほしい。ぼくが言いたいのは「なるようにしている」人間もいるということだ。なるべくしてなっている、と言い換えてもいい。
どんなことでも一流になる人間と、そうでない人間がある。その差はどこにあるのかを考えてみることだ。

ゼミの消滅かという事態になっても不思議と淡々としている。以前からその予兆を感じていたからだ。それ以上に、すでにありったけの情熱をこれまでの学生たちに注いできたという自負があるからか。それとも学校に未来を感じないからか。あるいは熱い学生の少なさ故か。
いささか疲れている。

自分も卒業したような気持ちで、ひとり渋谷を後にした。
数時間前のワークショップの濃密さと盛り上がりを思い出していた。

「再見 (ツァイツェン)」や「See you later」ではない。「Good by」も少し違う。「Ciao (チャオ)」は軽すぎる。ここはひとつ粋がって「Adieu (アデュー)」とでも言おうか。


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