2009年1月28日(水)  されど、みかん

年が明けたと思ったら、2月がもうそこに待っている。今が一年で一番寒い日々である。

冬の深夜、ベランダに出ると、『月の道-Borderland』を撮っていた頃をよく思い出す。あの寒さを体が覚えているのだ。寒さだけでなく、夜、強風、という状況がぼくをあのころに誘うのだろう。昔を思うとき、ついため息が出る。この程度の東京の冬に震えている自分が情けなくなる。

夕暮れが近づくと何度も何度も空を見上げた。そして夜、雲がないことを確かめると、撮影の機材を担いでテントを出た。この歳になれば、あの気持ちを奮い立たせるには相当の覚悟が要ると思う。しかし当時のぼくはそれが宿命のように淡々と出かけた。写真を撮ることがおもしろかった。気力と体力も、軍艦島の闇の重圧と、冬の寒さを払いのけるには十分すぎるほど充ちていた。
ただ、早めの夕食を済ませてテントを後にするときに、まったく気後れしなかったわけではない。夜の軍艦島でテントは唯一の安らぎの場所だった。それをぼくのアジールと呼べばいいのだろうか。薄いシート一枚を隔て、外は異界である。夜の軍艦島は、いつも恐れと不安を駆り立てた。

写真機材のほかに小さなバッグをひとつ肩にかける。それはぼくの生命線だ。フィルム、ペン、メモ用紙、ティシュー、ハンカチ、タオル、絆創膏、予備の電池、万能ナイフなどの他に、食料と水が入っていた。食料と言っても、カロリーメイトとバナナとみかんぐらいのものだ。一度出れば、空が曇らない限り朝までテントには戻らず、夜のほとんどを外で過ごす。だから暖かいものを飲みたかったけれど、魔法瓶を持てば荷物が重くなる。夜の移動と写真機材の重さを考えると、装備は出来るだけ軽くしたかった。
カメラをセッティングし、撮影を始めても暇はあまりなかった。シャッターを開け放ち長時間露出をしている間に、次の撮影場所の下見をした。それを済ませると、寒風と荒れる海のしぶきを避ける場所を捜してようやく座り込む。
風があまりにも強い夜は、片時もカメラの傍を離れない。突風で三脚ごと吹き飛ばされる恐れがあるからだ。従順な犬のようにカメラの脇に腰を下ろしてじっと見守る。尻の下のコンクリートは氷のようだ。そのせいでぼくは撮影の間、痔を患った。
吹きっさらしの岸壁で、分厚いミトンの手袋を外し、みかんの皮をむく。冷えきっているけれど、そのときのみかんは格別だった。

今のぼくは暖かい部屋でみかんをむいている。軍艦島の体験との埋めようのない隔たりを感じながら。

軍艦島で食べたみかんは、スーパーの安売りで求めたものだった。みかんだけではない。軍艦島でのすべてのものをぼくは金額で選んだ。ただし、生きるための栄養のバランスをまったく考えなかったわけではない。みかんやバナナもその選択のひとつだった。

10年ほど前からだろうか。とてもおいしいみかんを食べている。長崎のある地方で穫れたみかんだ。
『月の道-Borderland』を終えてから、ずいぶん年月が経っていた。別の写真を撮るために長崎のある地方を車で走っていたとき、道の脇に無人のみかん販売所があった。しばらく走るとまたあった。それは次々に現われた。
撮影の帰りに販売所のひとつに立ち寄り、試食用みかんのおいしさと安さに驚いた。翌日も、その翌日もぼくはその地方に通った。もちろん写真を撮るためだったけれど、いつも帰りには販売所や、土地の人たちがやっている産直の店に立ち寄った。
撮影の最終日、ぼくはそれまでに試食した中でも甲乙つけ難いふたつの農家のみかんを買い求め、衣類などと共に段ボール箱に詰めて東京に送った。一袋に3キロか5キロも入って300円だった。(これは無人販売所だけの現地価格です)。
荷物の到着よりも一日早く帰宅したぼくは、みかんの到着を待った。果物をほとんど食べないかみさんに、そのみかんを食べさせたかった。かみさんは酸っぱい果物をまったく食べない。ぼくには十分に甘いみかんを、顔を歪めて酸っぱいと断じるような味覚の持ち主だった。だから年間に3個ほどしか食べなかった。そんなかみさんが、このみかんなら食べられると、自ら口にした。

翌年、一番おいしかったみかんの袋に張られていた生産者の名前から電話番号を調べ、直接電話した。見知らぬ者からの突然の電話に中尾さんは驚き、こんな電話は初めてだと照れ、そして最後は嬉しそうだった。その年は収穫がすでに終わっていた。がっかりして電話を切ろうとしたら、自家用に取り置いているみかんを送りますという声が聞こえた。
10キロ入りの重い箱が届き、小玉と大玉の二種類のみかんが入っていた。請求書は同封されず、いつまで待っても郵送もされなかった。電話すると、喜んでもらえることが嬉しいからと、とうとうお金の話は出なかった。仕方なくお菓子を送った。
そうして中尾さんのみかんを毎年注文するようになった。しかし相変わらず請求書は届かず、電話で値段を聞くと渋々答えてくれた。請求書がみかんと一緒に届くようになったのは、後年のことである。
その後もその地方を訪ねることがあった。目と鼻の先にいるのだから、家を捜してみようかと思い、しかしやめた。収穫で忙しい時期だ。会わなくてもあのみかんの味と、あの電話で人柄はなんとなくわかる。それでいいのだ。だからいまでも互いに声しか知らない。

今年、小林のりおさんに贈った。小林さんはとても喜んで、会ったり、電話したときは真っ先にそのみかんの話になった。お世辞を言わない人が、おいしいと何度も繰り返す。よほど嬉しかったらしく、高価なジュースのセットがお返しとして届いた。律儀な人だ。
ひとり暮らしの学生や、塾生たちに毎年そのみかんを少しずつおすそ分けする。みかん処の愛媛で過ごし、おいしいみかんを知っている男は、悔しいけれどこのみかんには負けました、と書いてきた。
年末にアサリの件で、わざわざお菓子を持って詫びに来たスーパー「いなげや」の店長に恐縮して、そのみかんをいくつか手渡したら、店長は玄関で早速味見をして顔つきが変わった。そして問わず語りに話しはじめた。
「親が八百屋をやっておりまして、私は今はこの仕事ですから、みかんのことはよく知っています。業界では愛媛の○○のものが最高と言われますが、このみかんはそれと勝負できます」。
そんな話を聞きながら、自分の手柄ではないくせに、ぼくはちょっと偉そうな顔つきになっていることが自分でわかる。

このみかんを多くの人に買ってほしいと思う。中尾さんもそう願っているはずだ。しかし現実はそう単純ではない。多くのみかんが実っていても、それを収穫する人手がない。中尾さんも夫婦ふたりだけの労働で、跡継ぎはいない。収穫は大変な重労働だ。たとえ需要が多くても現実にはそれに対処できず、購入者が増えれば却って生産者に迷惑をかけることになる。
中尾さんは高齢だ。電話をかける度に、いつまで作れるか・・・という話になる。みかんに限らず跡継ぎのいない日本の農家の先行きは暗澹たるものがある。慢性的な人手不足の解消に、失業者をそちらに回せないかと思う。自給率の向上を謳いながら、日本の現実はこういうものなのだ。政治の非力さがこんなところにも現われている。

中尾さんのみかんの味をどう言えばいいだろう。濃厚でキリッとしている。とても甘いが、酸味も効いている。果肉の色も濃い。みかんはこんな味だったのだとつくづく思う。みかんそのものを再認識させられる。
ふと思う。そんなアート作品にはなかなか巡り会えない。
どんなものでも同じことだ。いいものは簡単に出来はしない。

みかんを前に、様々なことが頭をよぎる。
数個になってしまったみかんを惜しみながら食べている。暖かい部屋で。



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