2008年12月15日(月)  誰かと食べる

ひとりでご飯を食べているとわびしくなる。大家族で育ったせいだろうか。
家での食事もそうだけれど、外食となるといっそう鬱陶しい気持ちになる。例えば、ひとり旅はおもしろいけれど、いつも頭を悩ますのは食事である。それが夕食であったり、寒さのなかを食事処を求めて歩かねばならないような冬の季節は、とても気持ちがわびしくなる。その土地ならではの珍しく、そしておいしいものを見つけたときなど、誰かと一緒なら…、ついそう思う。家族連れがテーブルを囲んでいたりする店にはできるだけ入らない。ひとりで食べている自分を痛切に感じるからだ。ひとりの客が多い店を選べば、気持ちが少し救われる。

子供のころの夕食は、家族で長方形の座卓を囲んだ。大学を卒業した頃に帰省して、あんな小さな食卓でよく9人も一緒に食事が出来たものだと思ったことがある。父親がかなり厳格で、お婆ちゃんから妹まで、全員がいつも正座だった。
向田邦子さんのドラマを見るたびに、そこに登場する封建的すぎる父親や、都会の家族のありように違和感を持ちつつも、どこかに共通点を感じ、懐かしさと、あの時間がもう戻らないことを実感する。そんなふうに思えるのは、あの頃が幸せだったからだろう。

14日の毎日新聞 (朝刊) を読みながら、そんなことが頭に浮かんだ。

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彼は日常、一体どんな食事をしていたのか?ー。彼とは今年6月、東京・秋葉原の歩行者天国で7人もの尊い命を奪った容疑者のことです。事件後に派遣労働者の不安と孤独、オタク世代の性格的特徴など、事件の社会的背景が明らかになりました。しかし、事件を起こす3日前、彼がどのような食事をしていたかについて、誰も関心を持ちません。何を食べていたかではなく、誰と食べていたかです。容易に想像できることは、多分大勢の客のいる店で、ポツンとひとりで食べていたのではないか。食卓での友人らとの会話の弾む食事とは、ほど遠い「食べ事(たべごと)」をしていたのではないか、と推測されます。それは弧食であり、彼の日常の孤立ぶりが最も色濃くにじみ出てきます。
甘い推測かもしれませんが、彼が事件直前に一度でも人と会話の弾む食事をしていたら、あるいはこの事件は回避されていたかもしれません。
食事とは、何を食べるかではなく、誰とどのように食べるかが、非常に重要な問題です。現代日本では今、このことが大きく崩れてきているのです。
この「食べ事」や「弧食」の問題は、若者だけでなく高齢者にとっても非常に重要なテーマです。現在、多くの高齢者が水炊きとか、すき焼きなどの鍋料理が日常では食べられなくなっている。お金がないわけでもなく、調理技術がないわけでもなく、最大の理由は鍋を囲む子どもや家族がいないのです。
(後略)

7月に長崎で開かれたシンポジウムでの、熊本大学教授、徳野貞男さんの基調講演。

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弧食(こしょく)。
言葉の響きが意味を的確に表している気がする。寂しさを連想するその響き。

独り暮らしだけでなく、家族と暮らしていながらの弧食も増えているらしい。それは崩壊しようとする家族の予兆ともいえる姿だ。食事の風景から家族の状態が読めることは、すでに知られた事実である。愛情と料理には相関関係がある。料理に手を抜かず、しかも一緒に食事する親を持つ子どもは幸いである。子どもは知らず知らずのうちに食事どきに親の愛情を感じて育つ。料理の手を抜く親の論理は、愛情の欠如による親子のひずみを生むだけにとどまらず、添加物入りの弁当やインスタント食品が子どもの脳を徐々に侵し、切れやすい子ども、荒れる子どもに仕上げていく。その上、弧食は躾(しつ)けの機会を奪い去る。共働きの家庭は要注意である。

コンビニで弁当ひとつを買い物かごに入れた若者や、スーパーでひとり買い物をする老人を見ると、記事のようなことをいつも思う。毎年、写真学校の最初の授業で、学生たちに独り暮らしかどうかを尋ねる。それを知ることも教師の役目だと思っている。
都会での独り暮らしの若者を持つ親も、故郷に独り暮らしの親を持つ人も、互いに心を残しながら、仕方のない現実に流されている。寒々しい食事の風景は、誰にとっても他人事ではない。

「よくそんなに夫婦で話すことがありますね」
かみさんが会社で同僚からそう言われると聞き、ぼくはかみさんに尋ねる。
「なぜみんな、夫婦で会話がないんだろう?」

人と話さなくなったら、まずい兆候だ。独り言が多くなるともっとまずいらしい。
若者よ、携帯メールをほどほどにして、こもらず、話をしてほしい。ひとりでラーメンをすするのは侘しいが、誰かと一緒なら、インスタントラーメンだってけっこういいものだ。


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