2008年9月30日(火)  変な人

今月のワークショップはなんだか新鮮だった。夏休みが明けて久しぶりに塾生たちと顔を会わせたからだろう。彼らも心なしかニコニコしていた。
終了後、仕事が多忙という相原は帰宅し、橋本と夕食に行った。その中華料理店はおいしく、量が多く、しかも安く、若者にはうってつけの店だった。ぼくはいつものように、カニがいっぱい入ったチャーハンを頼んだ。最初はおいしかったが、半分ほどになったとき、すべてを食べきれないだろうと感じた。それでも残すことに抵抗があるぼくは、無理やりすべてを平らげた。
ケーキだった。ワークショップで食べたケーキのせいで、まだ胃がもたれていたのだ。

その日、相原はわが家に近い店でおいしいケーキを買い求め、コーヒー豆を3袋も持ってきてくれた。次いで現われた橋本は、仕事の関係で小田原からワークショップに駆けつけたが、その土地で評判の豆乳ロールケーキをわざわざ買ってきてくれた。そしてワークショップのおやつとしてぼくが用意していたのも、ロールケーキだった。
休憩時間にふたりのケーキを食べ、ぼくの胃はそれを消化しないままに、夕食に来てしまったのだ。そんなことを思っているうちに突然思い出した。
「今日はぼくの誕生日だった」
昨日までは覚えていたのに、すっかり忘れている。
「おめでとうございます」
「この歳になれば、あんまり嬉しくもないよ。生まれた日というだけだね」
ちょっとすねたように橋本に言いながら、母親の顔が浮かんだように思った。それにしても、ふたりがケーキを持ってきてくれたことは奇遇だった。それは嬉しいことだった。

赤塚不二夫と矢沢永吉が、ぼくと同じ日に生まれたことを知ったときは、驚き、そしてなんだか力が抜けた。アインシュタインや、ピカソだったら、何となくウキウキしただろう。
歳が違っても、同じ日に生まれた人間というのは、似ているとは思わないが、なにか通じるものがあるのではないかと思うのだ。
タネもお腹も違うけれど、お腹にいた季節が同じである。人は誰しも季節から影響を受けながら生きている。生を受けたばかりの胎児に、季節が大きく影響しないはずがない。互いに通じるところがあっても不思議ではない。占星術(星占い)などまったく意に介さず笑い飛ばしているが、これも天体の運行を基準にしているから、原点は似ている。

誕生日が同じだと知った若い頃、ぼくは赤塚不二夫と矢沢永吉を「変な人」という意識で見ていた。文字通りの変な人である。だから一緒にされてはたまらないと思った。しかしぼくも人生を重ね、変な人に対する意識は変化した。そんな人になりたいと思うようになったのだ。今でもその気持ちは変わらない。
ただし、それは願ってなれるものではない。こういうことを無い物ねだりというのだろう。持って生まれた頭と、特異な経験の絶妙な熔解。言うなれば神の秘技の領域だ。

赤塚不二夫の漫画は人を惹き付ける。馬鹿馬鹿しいと思いながらもハマってしまう魅力がある。珍妙なキャラクターを作り出し、そのキャラクターのギャグが爆発的に流行ってしまうのは、人の心を掴んだ証拠である。どんな枠にもはまらない赤塚不二夫という人間のでかさ。奇想天外、奇妙奇天烈。亡くなるまでそうだった。
矢沢永吉を好きか嫌いかと言われれば、好きなタイプではない。彼のCDを買って聴きたいとは思わない。けれども、並はずれたパワーを持つ、桁外れにおもしろい人間であることは間違いない。トラック野郎の心を鷲掴みにできるのは、この人と八代亜紀ぐらいなものだ。
ジョニー・大倉たちと組んでいた広島のローカル・バンド「キャロル」が初めてテレビ放映されたとき、それをたまたま見ていたミッキー・カーチスが彼らに惚れ込み、メジャーデビューへの道が開かれたという。同じ番組を見ていた篠山紀信も、彼らの写真を撮りたいという強い欲求に駆られたらしい。こういう伝説を生む特別な何かを、矢沢は持っていたのだ。

昔、かみさんの母親に言われたことがある。
「雄二さんて、永ちゃんに似ているわ」
もちろん矢沢永吉のことである。あまりの唐突な発言に「ハアー?」と言い、苦笑するしかなかった。かみさんは吹き出して笑った。そんなこと、誰からも言われたことがない。そのころのぼくにしてみれば、ちょっと迷惑で嬉しくない発言だった。容姿のことならなおさらだ。でもそれが「変なヤツ」という意味だったとすれば・・・。もしそうだとしても、赤塚、矢沢のふたりに比べれば、「変の度合」は足下にも及ばない。
(残念なことに、近頃ソニーのTVコマーシャルで見かける矢沢の顔つきからは、凄みも泥臭さも失われ、変な人でなくなりつつあるように見える)。

アインシュタインや、ピカソは、とても変な人だった。
変な人は、変なことを考える。変なものを作る。それは誰にもできない、その人だけのもの。

ただし、変な人なら誰でもが天才になれるわけじゃない。
そして、どんな人と誕生日が同じでも、同じ日に生まれたというだけのこと。それを痛感する日々である。


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