2008年8月5日(火)  笑えない話

ふたりの学生から突然にメールがきた。1日のNoteを読んだらしい。
ひとりは「長崎ではお世話になりました。大変貴重な体験を経験できて感謝してます。色々とありがとうございました」に続いて新しいメールアドレスが書いてあった。
もうひとりは「夏バテがひどい口内炎となって現れてしばらくお粥暮らしでした」「遠藤周作の小説を見ながら余韻も楽しんでるところでした」などの合宿後の近況が綴られ、「先生のサイトを読んで汗ってメールしてます」とも書いていた。本当に汗って(焦って)いたことがよくわかる。
書くことは少なくとも何かを伝えるためだ。しかし紋切で通俗の枠にとどまっていれば、書いた人間の心が見えない。お役所の文章や、美辞麗句を並べた手紙の例文がそれに属す。それに比べれば、上手い下手に関係なく、素直な気持ちが感じられる文章は印象に残る。
対照的なふたつのメールだった。

それにしてもと思う。こんなメールを書くことなど簡単なことだろう。
学校で合宿をするのはぼくのゼミだけだ。彼らは合宿を当然と考えているのだろうか。手配に多くの時間をかけている。授業の一環にもかかわらず、学校からは経費の一部しか支給されないから持ち出しである。自分の仕事で行くわけではないから、ぼく自身には何らかの意義があるわけではない。
それをわかっているのか、いつも帰京後に学生たちから礼状が届く。今年は竹下だけで、しかも彼は最年少の学生だった。人間を年齢で判断すべきではないとあらためて思う。これは思いやりの問題だ。育ち方や資質のなせることだ。
2年前の学生たちは羽田空港で解散した別れ際に福砂屋のカステラをくれた。小さなカステラだったけど、学生たちの感謝の気持ちは十分に伝わった。こんなことは初めてだったし、それ以後もない。

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「ゼミは君たちと一緒に作っていくものだ。おもしろいゼミになるかどうかは君たちにもかかっている。いや、君たちにかかっている」
毎年ぼくは最初のゼミでそう話し、発言を含めた積極的な参加を求める。学生たちは発言しますというにもかかわらず、沈黙が多すぎる。今年の学生はひと味違うというぼくの認識は甘かった。

話についてくるのは確かに大変だと思う。というのも、ぼくの話は写真学校や美術大学の一般的な教師の話とはかなり違うからだ。おそらく、彼らが今まで考えもしなかった内容の連続だから、話を咀嚼するのに精一杯で、あるいは話の意味を考えるのに脳みそをフルに使っているだろうと思う。その状態では自分の考えを引き出すところまで辿り着けず、それでは発言も出来るわけがない。
合宿のとき竹下に尋ねたら、まったくその通りだと答えた。ある大学の芸術学部を卒業している彼にして、この有様だ。
家に帰り、ひとりになって、ぼくの話を記したノートを見ながら、話を思い出しながら、頭を整理つつやっと考え始めるのだ。でもそうしているうちに、ぼくの話したことに対する質問や、疑問が生まれないのだろうか。ぼくの話は誰でもそのまま鵜呑みに出来る話ばかりではないはずだ。ではなぜ次回のゼミでそれが質問として出てこないのか。ぼくの話を受けて考えたことを発言しないのか。
発言しない人間は世界では通用しない。日本でも通用しない。それは写真に限らない。

あまりの学生のふがいなさに、何でもいいから発言をと思い、全員に言った。
「次回のゼミでは、どんなことでもいいから笑える話をしてほしい」
翌週のゼミで披露したぼくの馬鹿話はかなり受けた。竹下は笑いすぎて赤い顔になった。続く竹下の話に今度はぼくが笑った。次は五十嵐の番だった。
「オーストリアでは女性がピルを使用しすぎて、湖の魚が卵を産まなくなって、魚が減っているらしいです」
続きを待ったが、それで終わりらしく黙っている。しばらくシーンとなった。
「ピルの成分が下水を通して湖に流れ込んで、それが魚に影響しているということか?」
「そうです」
「それ、笑えないじゃん。社会、環境の問題で頭の痛い話だろ。笑える話を頼むよ」

「先日、昔ながらの田植えをしたのですが、その時に聞いた話では、手で植えるのと、機械で植えるのでは収穫に差がないそうです。それにもかかわらず、農家は機械を買わされて、その代金を払うのに大変らしいです」
そして沈黙。
「またシーンとなっちゃった。笑える話、ないの?」
五十嵐はモゾモゾしている。
ぼくはアメリカのプアー・ホワイトを描いたスタインベックの『怒りの葡萄』を思い出していた。社会問題など誰だって考えている。何か改善の方策はないかと思っている。それらを考えることは大切なことだ。しかし今回ぼくが求めたのは笑える話である。発言させることが目的だったから、こういう話でもしないよりはましかと思った。
ふと竹下を見ると、また赤い顔をして笑いをこらえるのに必死である。五十嵐の話がおかしかったのではなく、ぼくと彼女のやり取りが、まるで漫才のようだったらしい。五十嵐がボケで、ぼくがツッコミ。確かにぼくも話しながらそう感じていたから、竹下と目が合って思わず吹き出した。
その週に休んでいた石山の笑える話を後日披露してもらったが、内容を忘れるくらいつまらなかった。石山は「テレビで見たとき、この話はとても笑えたのですが・・・」と言った。

他から仕入れた話の受け売りなどつまらないに決まっている。ぼくと竹下の話は自分の体験談や失敗談だからおもしろいし説得力がある。他人事(ひとごと)という意識下にある話をしても、相手を引き込むことなどできない。借り物はしょせん借り物だ。五十嵐や石山がいかに抑揚のない人生を送っているかを想像した。それは彼らの写真そのものだ。
作品を作る上で大切なのは、他からヒントを得たとしても、コンセプトが最終的に自分のものになっているかどうかだ。自分のコンセプトであっても薄っぺらい写真ではどうにもならないし、最初から最後まで借り物のコンセプトではもっと情けない。
当たり前のことだけれど、写真には撮った人間が現れるのだ。

写真や美術や宇宙の話をするとシーンとする。学生に笑える話をさせてもシーンとする。これが今年のゼミの実態だ。でも去年よりはいい。

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メールと写真。発言と写真。
一見つながっていないように見えるふたつの事例が、どこかで繋がっている。

4月、ぼくが最初に彼らに出したメールへの返事が強く印象に残っている。二人の学生は他人事のような冷めた印象の返事だった。そして竹下のメールからは明確な意思表示とやる気を感じた。ゼミを進めるうちにわかったのは、竹下の写真がおもしろい(良い)ことである。やはりと思った。
些細なことがその人間を象徴的に現すことがある。 第一印象の妙である。



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