2008年6月5日(木) 佐野洋子さん
先日、新聞の書評欄に佐野洋子さんの著書が取り上げられていた。
そうだろうなと思った。取り上げられて当然だと思ったのだ。書くことが本業ではないと思うのだが、この人の文章は、読む者を引き込む力がある。
「ものを観る力」
「ものから感じる力」
要するに感性に天性のものがある。ものを見抜いてしまう力には驚かされる。会うのが恐ろしくなるような人だ。
文章は決して上手いというわけではないのだけれど、プロの文章家もかなわない独特の味を持っている。こういう人に写真を撮らせれば、きっととんでもない写真を撮るだろう。
ちょっと腑に落ちなかったのは、書評を書いたのがある女性の小説家だったことだ。ぼくは彼女の小説にまったく関心がない。読んでいないのに失礼な話だが、新聞の出版広告で彼女の新刊本が紹介されていることがあると、その短文をさっと読んだだけで、やっぱりなと思う。まったく読む気にならないのだ。その本の記憶はするりと頭から抜け落ちて、何事もなかったような時間に戻る。そういう小説が巷に跋扈しているのかと残念に思う。
いくら小説を読まないぼくでも、腑に落ちる小説と落ちない小説がある。その女性だけでなくほとんどの小説はまったく腑に落ちない。(ましてやケイタイ小説など、勝手に書いてくれ、勝手に読んでくれの世界だ)。
そんな女性が佐野洋子さんの本を書評に取り上げる。それが不可解なのだった。この人、本当に佐野さんのおもしろさをわかっているのだろうか。書評の内容はそつがなかったが、陳腐だった。彼女が書いた小説をいっそう読む気にならなかった。
その本だけでなく、佐野さんは今年『シズコさん』という本も出版した。
単行本は読んでいないが、新潮社の『波』に連載されていたのを読んだ。『波』は知る人ぞ知る、新潮社の新刊本を宣伝するための小雑誌だ。宣伝だから書店のレジの横などに置いてある。要するにタダだから欲しければ勝手に持っていけばいい。
そんな雑誌にもかかわらず、書き手がみな錚々たる顔ぶれだ。驚くような作家たちが書いている。宣伝雑誌だからヨイショの嫌いはあるが、書評誌の側面も持っており、ヨイショ書評の雑誌と考えればいい。この『波』を読んでいるから、ぼくは新刊の小説のことを多少は知っている。
『波』には連載が何本も組まれている。それらはほとんど小説で、ぼくはいつもそれを素通りする。連載が始まった時に一ページほど読んでみる。そうするとその小説はわかってしまう。おもしろいか、おもしろくないか。その結果、小説はほとんどすべて読まないことになる。小説でない連載はほとんど読んでいる。
例外は伊集院静さんの小説『最後の授業』で、これは最後まで読み切った。珍しいことだった。
同じころ佐野さんの『シズコさん』が連載されていた。(ところでこれは小説なのだろうか?)。佐野洋子という人が何者か知らずに読み始めた。母親と自分のことを書いていた。ちょっと癖のある文章に最初は違和感があった。しかも「こういう話、本当は好きじゃないんだ」と思いつつ、ぐいぐい引き込まれた。読み続けるうちにこの人が「尋常ではない」ことを察した。特別な何かを持っている。
売れるだけのくだらない小説を書いているその他大勢とはまったく違う。
失礼にも、文章は上手くないと書いてしまったけれど、佐野さんはテクニックで書くのではなく、本性で書いている。いい文章を書こうという意思がなくても、いい文章が書けてしまうのだ。
才能とはそういうものである。
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