2008年4月16日(水)  5年目の海

温かな日の夕方、やさしくたゆたうような穏やかな春の海を前に野球をした。
のんびりとして、楽しかった。人は日々の暮らしの中で、忘れてはいけないものをつい忘れてしまう。それを思い出させてくれる夕方だった。言葉にしてしまうと頼りなく、上滑りしそうな平和というものの実感。

3月の中旬にワークショップの合宿で三浦半島に行った。西向きの浜だから太陽は伊豆半島に沈む。ゆったりと砂浜に寄せる波と、その彼方に沈む夕日。野球をやめてみんなでしばし眺めた。横から差すオレンジの光に染まる塾生たちは、若者らしくいい顔をしていた。彼らはその顔に気づいていないだろう。

今年の合宿はOBたちにも声をかけた。ワークショップをやめても縁が切れるわけではないのに、普段は会うこともない。それならばこういう機会にでも会いたいものだ。声をかけたほとんどのOBが参加してくれた。
スーパーの売り場に立つ者。デザイナー。大手カメラメーカーに勤める者。バイトに明け暮れる者。後者二人はワークショップをやめてもまだ写真を続けている。本気で写真をやる気持ちがあるなら、最後の男のような生活をしなければ、写真を続けることは無理だろう。彼は写真中心の生活をしているからこそ、バイトに明け暮れる生活になってしまう。写真は他の仕事をやりながら、ちょっと片手間でできることではない。両立は絶対に無理ではないけれど、そのためには途方もないエネルギーが必要だ。
写真を撮り続ける者と、写真から遠ざかってしまった者。どちらでもいいと思う。生きることに何かを見いだしているのならそれでいい。写真をやることはひとつの生き方に過ぎない。しかし写真とは思考することだ。写真をやっていた時のように思考を続けてほしいと思う。思考をやめてしまった者には、だらだらとした人生が待っている。
人は生きている限り、何かを考えている。しかしぼくが言う「思考」とは、その次元のことではない。生活レベルの単なる思いや考えを思考とは呼ばない。生活レベルから始まりながら、しかしそれを超越したもっと別の深いものに向かってほしいと思う。

野球の後、ビールを飲んで食事をしながら、ぼくは難しい話から馬鹿話まで様々なことをしゃべり続けた。布団に入ったのは、午前の2時か3時か覚えていない。
男たちは広い部屋で布団を並べた。電気を消して布団の中に入り、ぼくは言った。
「声をかけても参加してくれないかと思っていた。みんなよく来てくれた。とても嬉しかった」
「こちらこそ、声をかけていただき、嬉しかったです」
山本に続いて、みんなが口々にそういった。よく来てくれたというのは本心だった。写真から遠ざかっていれば、後ろめたさもあったはずだ。来たくても来づらい。それでも来た。そんな気持ちではないかと思う。みんなに会いたかったのだろう。ワークショップの雰囲気を再び味わいたかったのだろう。声をかけて良かった。
翌日は朝から通常のワークショップだ。塾生やOBたちの写真をみんなで講評していく。最近は塾生たちの発言が増えている。OBたちも久しぶりにもかかわらず発言した。昼食を挟んでそれは続き、宿を後にしたのは、2時だった。

夜になるとOBたちからメールが届き始めた。合宿に参加できたことの喜び、ワークショップで考えたこと、今後のことなどが記されていた。一人一人に返事を書くのはくたびれた。
メールからは合宿で様々なことを考えてくれたことが伺えた。なかでも桧原という男がくれたメールはとても内容があった。彼は一日目の参加が出来ず、翌日からの参加だったにもかかわらず、奥深い文章を送ってくれた。それは彼の思考を物語っていた。
ワークショップの意味を再確認した。彼らが思考するための糸口を見つける手助けをすること。ぼくの役目はそれに過ぎない。
今月からワークショップは5年目を迎える。塾生たちとの新たな日々が始まる。静止することがない海のように。


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