2008年3月12日(水)  ハチとハチ

家を出ると、春を感じる。
外出するとき、この間までは家の内外のあまりの気温差に、ドアを出ると心も体も一瞬力が入ったけれど、ここ数日は外の方が暖かく感じる。2月に入ると陽差しには春を感じたものの、気温は冬のままだった。予想外に長く寒い今年の冬も、ここに来てようやく終わる。

外出は夕方が多かったから、寒さがいっそう身にしみたのだろう。この冬は家にいることが多く、体がなまっていることを自覚していた。何か運動をと思いつつ、特別なことは何もせず、ただひとつ思いついたのは、駅まで歩くことだった。たった10分ほどの距離である。
勤めから帰宅するとき、かみさんが駅から家に電話を入れ、それを聞いてぼくは家を出る。家に向かうかみさんに途中で出会って近所のスーパーに行き、その日の夕食の材料を一緒に買って帰る。ぼくが家にいるときは、二人で買い物をしながら献立を考えるのが結婚以来の慣例になっている。
駅まで歩くことは、それを少し延長しただけにすぎない。でもやらないよりましだ。運動のために出来るだけ早く歩いているうちに、次第に所用時間は短縮していった。駅の階段を二段飛ばしに駆け上がる頃には少し汗ばみ、ハアハアしながら改札口の前で18時5分の電車を待つ。

初めての日、かみさんは目の前のぼくに気づかずに電話をかけようとし、声をかけるとびっくりした。
「どうしたの?」
「運動のために、駅まで来ることにした」
「ハチみたい」
「じゃあ、何かくれなきゃ」
ハチというのは言わずと知れた渋谷駅前のハチである。ハチは電車で帰宅する主人を毎日渋谷駅まで迎えにいった。そして主人が死んだ後も、それを知らずに通い続け、主人が出てこない改札口にたたずんでいたという。そのけなげさ故に、いつしか人々は「忠犬ハチ公」と呼ぶようになった。せつない話である。
ところがである。ハチは実のところ、主人や駅周辺の人たちがくれる「おやつ」を目当てに毎日通った、というのが真相らしい。
駅員や、かみさんと同時刻に帰宅する人のなかには、ぼくのことに気がついて、ハチ公のような人間だと思っているかもしれない。それもおもしろいではないか。
(それにしても「忠犬ハチ公」というのは妙な呼び名だ。忠犬と誉め上げておいて、長屋の熊さんを熊公と呼び、警察官をポリ公と呼ぶように、見下げた感じで馴れ馴れしい。)

ぼくたちは犬好きだから、わが家では毎日のように犬の話になり、たまにハチも登場する。でもそれは渋谷のハチではなく、鎌倉のハチだ。
鎌倉のハチとは、写真家・今道子さんちの柴犬である。そのハチは主人のお迎えをすることもなく、幼稚園の運動場ほどもある広い庭でのんびりと過ごしている。毎日ヒマを持て余している感もある。だからぼくは今さんのお宅を訪ねると散歩に連れ出したり、一緒に遊ぶ。昨年の11月に行った時も、久しぶりだったのにぼくたちをちゃんと覚えていた。
昼食の後、庭でコーヒーをいれて飲むぼくたちの間をハチはうろうろしていた。これまで一度もケーキを食べたことがないはずだというハチに、ぼくはケーキを食べさせたいと思った。
試しに小さな固まりを手のひらに載せて鼻の前に差し出すと、しばらく匂いを嗅いだ後、口先でやさしく噛んで、いくぶん離れたところに持ち去り、恐る恐るという様子で食べた。でも余程おいしかったらしく、再びぼくのところに来てジーパンの膝に右前足を載せ、ただじっと見上げている。
尻尾を振って人に媚びるタイプではなく、どことなく野生を感じる風貌なのに、噛み方と催促の仕草が、まさに今さんちの犬らしく上品だった。犬の品格も育ちで決まるらしい。犬を見れば、飼い主がわかる。

もうすぐ三浦半島に行く。時間があれば、帰りにハチに会ってこようかと思っている。


ハチの肖像

 

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