2008年1月15日(火)  スツールの色

「トイレ貸してください」
少年はそう言った。

寒い日が多いこの冬の、ぽっかりと空白のように暖かくなった日の午後、ぼくは外で、スツールの天板を透明ラッカーで塗装していた。
重い鋳鉄で作られた黒っぽい脚部が印象的なスツールは、ミシン仕事用に作られたもので、SINGERとエンボスが入っている。しかし、どっしりとした脚部に比べ、その上に載った木製の座板は少し印象が薄かった。小さめで厚みもなく、座るには少し心もとない気がした。
一年ほど前にスツールがぼくの元に来たとき、座板には濃い赤ペンキが刷毛(はけ)塗りされていた。それはいかにも素人のやっつけ仕事で、元々の塗装の上から乱暴に塗られた赤はボロボロと剥げ落ちる様子を見せ、長い年月が経過したという事実だけを漂わせていた。そう、確かにスツールは70〜80年ほども昔のものだった。その赤に我慢がならなかったぼくは、秋になって、ペンキを剥離剤で溶かしながら丹念に取り除き、本来の木肌を露出させた。そのとき初めてわかったのは、座板がことさら木目の美しい、すばらしいメイプル材だったということだ。
その木は北欧で育ったのだろうか。メイプルといえば、カナダと相場は決まっているけれど、そのスツールは英国で製造されたものだったから、欧州産かも知れないと考えた。
いびつだった形をヤスリでそぎ落としながら整え、荒れていた木肌にペーパーをかけると、座板は次第に美しさを増した。粗目から次第に細かいものへとペーパーを変えながら注意深く磨きつつ、久しぶりの手仕事に心は動いた。

高校時代の栂井(とがい)先生を思い出した。教室の一番前の席に座る生徒たちに唾を飛ばしながら、数1を教えてくれた先生の手はいつもチョークの白い粉が吹いていた。手の平で板書を消す癖があった先生は、両手がいつも白かった。黒板消しを使うのも面倒に思うほど一生懸命に数1を教えてくれたにもかかわらず、今のぼくが数学を何も覚えていないのはどういうわけだ。
木を磨いているうちに、手だけでなく、服や靴までも白くなった。

木肌があまりにも美しかったから、磨きの終わった座板をぼくはしばらくそのままにしておいた。それを塗装したり加工する行為が「悪」のように感じられたからだった。無垢の美とはこういうものなのだろう。
鋳鉄の脚の上に磨き上げた座板をただ乗っけたまま、正月を過ぎてもぼくは何も行動を起こさなかった。
ところが、今月のワークショップで塾生のひとりがそのスツールに何気なく手を伸ばし、座板を落としそうになり、ぼくは思わず声をあげた。彼は座板と脚がくっついていないことを知る由もなく、ぼく以上に驚いたことだろう。そしてその出来事は、見るだけだったスツールを、座ることの出来るスツールに変貌させることにぼくをやっと着手させた。
無垢のままの座板は十分にきれいだったが、そのままではすぐに汚れてしまうだろう。しかも白木に近い色は、脚の存在感に比べてあまりにも貧弱すぎて、許容できるバランスとは言い難かった。お相撲さんだった小錦の体に、色白の優男(やさおとこ)の小顔を付けたところを想像してみればいい。もちろんペンキを塗ることなど論外で、かといってクリヤーラッカーを吹き付けても少し黄色になるだけで、まだまだ存在感では脚部に負ける。

座板一枚のために何度も塗料の店の棚の前に立ち、色をさんざん吟味しながら、いまだに思案を続けていることに結論を出さねばならなかった。結局、木目が見える程度の茶に染めて、その上にクリヤーをかけて保護した。それは理想というものがあるなら、これしかないという仕上げになった。
ほころびのある粗末な原色の衣服から、美しい肌を見せるビキニの女性に変貌させた、とでも例えればいいのだろうか。そういえば仕上がった座板の色は小麦色の肌に似ていなくもない。

ちょっとニヤニヤしていたら、後ろで物音がした。
家の裏塀を乗り越えて、小学生がわが家の敷地に降り立ったのだ。
「近道してるの?」
それには答えず、小学生はちょっとモゾモゾしながらのたもうた。
「トイレ貸してください」
「シッコ? ウンコ?」
二番目に登場した小学生が答えた。
「ウンコです」
「ウンコしたいのは君か?」
「はい」
「それじゃあ急いで・・・」
ぼくは玄関ドアをあけ、慌ててランドセルを後ろから剥ぎ取り、手招きしながらトイレに連れて行った。
外で待つ小学生は問わず語りに、このいきさつを長々と話した。彼は2年生で、ウンコ君は3年生。友達の○○さんの家のあたりまで来たら、ウンコ君がトイレに行きたくなったので、近道をしながらここまで来たが、やはり家まで持たなかった、と。
ヒゲ面の一見怖そうなおじさんに声をかけたのだから、よほど切羽つまっていたのだ。ウンコ君にはぼくが神様に見えたことだろう。そうこうするうちにウンコ君がドアを開けて出てきた。
余裕が出た二人は、普通の家とちょっと違うわが家の造りに興味を示し、いろいろと質問を始めた。そして思い出したように、きちんと礼を述べて帰っていった。曲がり角でもう一度振り返り「ありがとうございました」と大声で言った。

ぼくの中では座板の色のイメージが、小麦色のビキニ女性からウンコ色に変わろうとしていた。

二人のことを話すと、かみさんが言った。
「また来るかなあ」



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