2008年2月5日(火)  出版の夢、あるいは半年後の返事

やっぱりと思う気持ちに続いて、ため息が出る。
今年の始めに出版社の倒産が相次いだことを新聞で知った。草思社と新風舎。どちらもぼくは直接知らない出版社だが、近年注目を集めていたという点では似ていた。ただ、2社の実態は大きな隔たりがあったと思う。

中野孝次「清貧の思想」は流行語になったほどヒットした。徳大寺有恒「間違いだらけのクルマ選び」のタイトルは誰でも知っているだろう。斉藤学「声に出して読みたい日本語」をはじめ、「声に出して‥」シリーズもヒットした。ほかにもベストセラーやそれに近い本を世に送り出したのは、草思社だ。
バブル以後、出版界が不況に喘ぐ中で、草思社は業績を伸ばした数少ない出版社だった。ベストセラーといえば草思社の本という時期もあった。
意表をついた本を出すというイメージがこの出版社にはある。そういう本を出せるということは、その会社が柔軟で面白い頭を持った人間たちの集団だったということなのだろう。それは出版する本のタイトルにも現れていた。タイトルの付け方がとてもうまかったのだ。本の内容ももちろんだけれど、タイトルは本の売れ行きを大きく左右する。書店で手に取ってもらうには、まず人の心をつかむタイトルが必要になる。
出版界を知らない人は、本のタイトルは著者が決めると思うだろう。ところが違う。著者の場合もあるけれど、編集者が決めることもかなり多い。編集者が提案したタイトルを著者と共に練り上げたりもする。文章を書くのは著者だが、本を作り、売るのは出版社の仕事である。タイトルは両者の領域だから、タイトルを巡り、両者が火花を散らすこともある。(ぼくの場合は、自分でタイトルを付けます)。

片や新風舎は新参の出版社だった。ところが近年事業は急拡大を続けていた。2006年に出版点数は業界トップの講談社を押さえ、なんと日本一に上り詰めた。何故そんなことになったのか。新風舎は自費出版専門の出版社だったからだ。

本を出版するには二つの方法がある。出版にかかる経費を、出版社が出すか、自分で出すかだ。本を出すには莫大な経費がかかる。内容が素晴らしければ、あるいは売れると出版社が判断すれば、大手出版社からでも本が出せる。しかし現実は、文章や写真を出版社に持ち込んでみても、断られるのがほとんどだ。それでも諦めきれない人は、自費で出版するしか道はない。
自伝や小説を書き、それを出版したいと望む人が近年増えている。カルチャーセンターなどで、自分史を書こうなどという教室が盛況だと聞く。書けばそれを人に読んでほしいと思うのが人情だ。本になったと言えば、周りはそれまでと違う目でその人を見る。本にするというのは、ただ文章を書くという行為とは全く違う。だから新風舎のような自費出版社が増え、しかも業績を上げていた。
最初は出来た本を知人や親戚に配ることで満足していた。ところが自分の本が出来れば、それを書店に並べたいと思うのも人情だ。著者の心理を読み、出版社はさらに心を揺さぶる戦略に出る。せっかくの本だから、書店に並べてみませんかと。誰かの本が書店並んだことが伝われば、自分の本も・・・ということになる。本を作ることと、流通に載せる(書店に並べる)ことはまったく違うから、流通まで含めると経費は当然高くなる。それが出版社にまた利益を生み、自費出版業界は雪だるまのように太っていく。

ところが流通での失策が数々の問題を表面化させることになる。
「全国の書店の棚に並ぶ、と書面や口頭で繰り返してきたのに、地元以外には、どこにも置かれなかった」
流通までの高額な経費を支払ったにもかかわらず、全国の書店に配本されなかったと、その人は裁判を起こした。それはそうだろう。明らかな詐欺行為だ。こういうトラブルが表面化すると、水面下のトラブルは芋づる式に現れる。訴訟が次々に始まった。
こんな事態になって、自費出版を望む人たちは、やっと冷静になったようだ。出版希望者が激減し、新風舎は資金繰りが悪化して倒産した。

なるべくしてなったとぼくは思う。出版事情を知らない人を相手にした、自費出版社の阿漕(あこぎ)なやり方が想像できるからだ。著者が素人なのをいいことに、面白くもない文章を誉め上げ、最初は低い出版価格を提示して、相手がその気になったとわかれば、言葉巧みに様々なオプションを勧め、追加料金はどんどん膨らんでいくという寸法だ。これでは老人を相手にした悪徳商法と変わりがない。
「本の一部は受け取ったが、残りが本当に刷られているのか確認できない」
「強引な勧誘を受けた」
出版した人のこんな記事が新聞に載っていた。
「多数の出版賞を創設し、落選者には自費での出版を持ちかけていた」とも書かれている。数多くの落選者を自費出版に導くための、エサとしての賞だったのだ。やり方がとても巧妙だ。
自費出版社のすべてがそうだとは思わない。しかしそんな会社が多いと思う。自費出版に対する当たり前すぎる話も載っていた。
「売れると見込まれた本は、出版社が通常の方法で出すに決まっている。自費出版の書店売りは『1部でも2部でも売れたらいい』程度のもの」(自費出版ライブラリーの伊藤晋理事長)

やっぱりと思う気持ちに続いて、ため息が出る。
冒頭にそう書いたのは、写真学校を一昨年に卒業した菊池のことが頭に浮かんだからだ。彼が悩み事の相談にのってほしいと長いメールを送ってきたのは、去年の7月のことだった。そのことは以前のNoteに少し書いた。
「僕は今、一部報道で話題になっている新風舎の写真集を作る専門のチームで働いています」
こんな書き出しだった。当時、新風舎はまだ社業が順調で、日本一の出版部数をマスコミで報道され、驚異の目で見られていた頃だ。「一部報道で話題になっている」というのはそういう意味だった。
「しかし、新風舎に写真集を出版したいとやってくる人たちの写真を見ると、うんざりしてしまう。そういう人たちに助言するのが仕事だが、菊池の助言を聞くだけでなく、それらの人にも写真についてもっと自ら考えてほしいと思う。どうすればそれらの人たちを考えさせるように出来るのか」
そんな悩みの幾つかが詳細に綴られていた。

菊池は騙されている。菊池は勘違いをしている。それがぼくの直感だった。
ぼくはそのとき、文芸社という似たような自費出版社は知っていたが、新風舎をまったく知らなかった。ただし、菊池のメールを読んだだけで、その会社の実態が把握できたから、ぼくは菊池への返事に悩みの返答を書かず、確かこんなことを書いた。
「その出版社は問題がある。そんな仕事をする菊池に、ぼくは賛成できない。素人をだまして儲けるような会社は辞めた方がいい。・・・」
菊池からそのメールに対する返事は来なかった。腹を立てたに決まっている。彼は新風舎と、そこでの仕事に誇りを持っていた。それを否定するぼくのメールを、全く理解できなかっただろう。

今の彼にとって一番大切なことは、自分の写真に専念することだと思った。自分自身が未熟で、まだまだ写真を学ぶべき立場の菊池が、逆の立場、つまり、導き、助言することの疑問も感じたのだ。彼は写真学校を卒業したというだけの、実績も経験も技術もない若者のひとりにすぎない。アートの教育、助言は、大学の教育学部を出た若者がすぐに教職に就けるのとはまったく違う。アートの場合には教科書というものが存在しない、という事例を考えてほしい。教科書に添って進めれば、とりあえずは新米教師でも何とかなるという教育とは違う。
そんな菊池を雇い、助言の仕事をさせてしまうところにも、新風舎という出版社の体質が現れていた。
菊池が決して悪い人間でないことは、ぼくが良く知っている。そういう意味では、会社は適任者を雇ったと思う。彼の人間性は客を安心させただろう。純朴で、一途で、真面目な彼は、出版を望む人たちにとって、とても良い助言者であり、相談役になっただろうと想像できた。彼は一生懸命に仕事に取り組んだはずだ。だからこそ、ぼくにそんなメールを送ってきた。
しかし現実は新風舎の建前にごまかされ、彼は会社の実態を把握できなかった。善いことをしているはずが、結果として不当な金儲けの片棒を担ぐことになった。悪徳な部分に直接係わらなかったとしても、会社の一員に変わりはない。ある意味では菊池も被害者なのだけれど、菊池が仕事に一生懸命になればなるほど、加害者の側面を増長していったのだ。それにしても、会社のやり方を冷静に見ればすぐに気がつくはずなのに…。純朴という資質はこういう場合、考えものである。
オウム真理教を思い出す。末端の信者は未だに教祖を崇め奉っているのだろう。

あらためて、自費ではなく正規の出版というものが、どれだけ大変なことかよくわかる。印税で生活できることは、まさに夢だけれど、彼らには実力と努力があるということだ。どんな業界でも、プロとアマチュアの間には大きな壁がある。


菊池君。今頃になってしまい、賞味期限切れのようになったけれど、半年前の返事をしよう。
教えることや助言に正解はないんだよ。アートの世界は特にそうだ。ぼくだって誰かに授業や助言の方法を教わったわけではなく、自分で考えてやってきた。君はメールに書いていた。
「雜賀先生の授業をよく思い出します。
先生の授業は、とにかく「自発的に考える」ことを促していくものでした。
それは、すごくいいことだと、当時も思っていたのですが、今強く思ってます。・・・」
そう思うなら、同じようにしてみることだ。そのための具体策は自分で考えるしかない。簡単に他人から答えを求めるべきではない。ぼく自身も知らず知らずのうちに、大学時代の恩師・磯田先生の影響を受けているのではないかと思うことがある。でも具体的な授業のやり方は全く違う。
一方的に教えることの方が、教師にはずっと楽だ。毎年同じ講義を続ける教師もいる。でもぼくはそんな授業はしたくないから、一週間に一度のゼミのために、事前にとても頭と時間を使ったし、今の学生たちにもそうしている。授業が菊池に何かをもたらし、しかもぼくと似た立場になって、あの授業のやり方を深く理解してくれたのだとしたら、そうした甲斐があったと思う。

最後に書きます。
大切なのは、教えるのではなく、一緒に考えようとすること。


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