−その弐− |
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何だろう、この気配は・・・ ふと目が覚めた瞬間、言いようのない焦燥感が襲ってきた。 総司は、だるそうに布団の上に身体を起こすと、額をぬぐう。 熱のための汗か、それとも冷や汗なのか、ぬぐった手の甲が濡れた。 嫌な予感がする。 耳をすましても、風に木々の枝がきしむ音が聞こえるばかりだった。 だが、そんな静けさの中に、神経がちりちりするような、不気味な緊張感が流れている。 新選組としての日々を送る中で、何か事が起こりそうな時には、空気の張り詰め方が違うことを、総司は知っていた。 (しまった、今夜だったのか!) 自分の迂闊さに、思わず舌打ちする。 斎藤が帰隊した次の日、総司はまたもや体調を崩したのだった。 幸い、血を吐いたところは、誰にも見られずにすんだものの、熱とだるさのため、ふらつく足取りを、土方が見逃すはずはない。 布団に押し込まれ、外出禁止だと怒鳴られた。 当然、御陵衛士殲滅計画についても、少しも話してはもらえない。 総司自身、今回の不調は今までになく重く、なかなか下がらない熱に朦朧とする日々が続いた。 そろそろ決行のはずだとわかっていながら、思う通りにならぬ自分の身体を呪った。 立ち上がろうとすると、軽い眩暈に襲われた。胸の奥がいがらっぽい。 けれど、そんなことにかまってはいられなかった。 とにかく、誰か残っている者に、様子を聞き出さなくては。 そして、今日が決行日だと言うなら、なんとしてでも自分も現場に向かう。 斎藤の話を聞いた時から、そう決めていた。 気だるさに耐え、大きく息をつきながら、総司はなんとか身支度を整えた。 乱れた髪も、きりりと結いなおし、枕元に置いてあった刀を、腰に差した。 よし、と気合を入れる。 足元が、いささか覚束ない。いったい何日寝込んでいたのだろうと言う疑問を、総司は考えの外へ押しやった。 急がなくては、と唇を引き結ぶ。 だが、総司が動くより早く、まるでその時を見計らっていたかのように、するりと人影が部屋に入り込んできた。 無言のまま、前に立ちふさがる。 総司は、少しも驚かず、ただ小さくため息をついた。 こうなることを予想していたように。 「どうしても・・・私をとめるんですね、斎藤さん?」 少しの間の後、低い声が答える。 「これが、俺の今夜の仕事だ」 「土方さんの命ですか」 珍しく、総司の声にわずかだが苛立ちが混じる。 「いや・・・、近藤局長だ」 「近藤さん?」 総司は、目を見開いた。 意外な気がした。 いつも、自分のことを神経質なくらい心配し、行動を規制していたのは土方だ。 おおらかな近藤はむしろ、総司の病についても、楽観的に考え、自由にさせてやろうとしているようだった。 なのに、その近藤が、今夜は自分を止めろと斎藤に命じたと言う。 もしかしたら近藤は、総司が考えていることを見抜いているのか。 細かいことは、気にかけないようでいて、人の気持ちの底を酌もうとする温かさを、近藤は持っている。 そのことに、あらためて気づき、総司の胸は痛んだ。 (すみません、近藤さん) 心の中で、総司は詫びた。 近藤が、総司のことをどれほど心配しているか、そして藤堂のことも・・・ わかりすぎるほど、わかっているだけに、申し訳なさでいっぱいになる。 それでも、我がままを通させてもらわなくてはならない。 そうしなければ、自分は・・・ 「誰の命でもいい。通して下さい」 低く、けれど鋼の意志のこもった声を、総司は放った。 斉藤は、まるで聞こえていないが如く、仄灯りの中で、無表情を崩さない。 わずかに細められた目が、じっと総司を見据えている。 それは、まさに新選組としての仕事をする時の顔だった。 「それとも・・・、あなたを斬り斃さなければ、私は外に出られない、とでも言うんですか」 総司の声にも、冗談を言っている響きはない。 冷ややかな硬さを宿したままだ。 じりっと足元を固めると、刀の柄に手をかけようとする。 まなざしが、冷徹な光を帯びる。 全身から、ひりつくほどの殺気が発せられた。 「やめておけ!」 押し殺したような斎藤の声。 今にも、居合いの体勢に入ろうとする総司を目の前にして、斎藤はいささかも身構えず、ゆるい空気をまとったままだった。 それでいて、絶対に引く気配は見せない。一分の隙もなかった。 「あんたの身体が万全の時なら、真剣での勝負だって、俺は逃げない」 にっと、総司の口角が、笑みの形に上がる。 「私なら、大丈夫ですよ。試してみますか?」 それは、いつもの無邪気な顔ではなく、凄絶な剣鬼の微笑だった。 「俺は抜く気はない」 そっけなく、斎藤は言い放った。 「俺の仕事は、あんたを止めることだ。殺すことではない」 そのまま、鋭い視線で総司を射抜いた。 総司も、笑顔を張り付かせたまま、斎藤を見返す。 「殺さなきゃ・・・、とめられないですよ、きっと」 視線を外すことも、息をつく隙すらも許されない。 そんな空気が、部屋中に重苦しく満ちて行く。 (もしかしたら、俺は斬られるかもしれない) 斎藤は、他人事のように覚悟を決めているのを自覚した。やむを得まい。 近藤の命令がある限り、自分は総司を傷つけずに止めねばならない。 だが、総司が自分を斬り伏せてでも外に出る、と言う決意を持っているのだとしたら、斬り合いを避けるのは至難の業だろう。 (さて、どうやって止めたものかな) 皮肉な笑いを心にひめ、斎藤は立ち尽くしている。 ひゅっ、とわずかに空気が震え、総司が身体をひねる気配がした。 とっさに、後ろへと飛び退った斎藤の着物の袖を、目にも留まらぬ速さで、白刃がかすめる。 無意識に、刀に手が行きそうになり、(いや、だめだ!)と、意識がそれを押し留める。 一瞬の迷いで、行動の判断が遅れた。 総司は、すでに次の動作に入ろうとしている。 (斬られる・・・) 斎藤の背筋を冷や汗が伝った。 時が、ぱたりと止まったかと思った次の瞬間・・・ ごほごほっ、と咳き込む音が聞こえ、振り上げられた白刃が、持ち手をなくしたように、すとんと畳に落ちた。 間を置かず、総司の身体が力なく崩折れる。 「沖田さん!」 緊張感が解けるより先に、驚愕が奔った。 斎藤が慌てて駆け寄るのを、総司は大丈夫だと言うように、片手で制止する。 激しく咳き込みながら、懐から黒い手ぬぐいを取り出し、口元に当てた。 ごほっ、ごほっと、嫌な音の咳につれて、大きく波打つ背中を、斎藤はまじろぎもせず、みつめていた。 不安が確実な形となって、じわじわ広がって行く。 総司の咳は、しばらく続き、やがて少しずつ間遠になり、おさまってきた。 ひどく長い時間だったように、斎藤には感じられた。 血を吐いたのかどうかは、手ぬぐいのせいでわからない。 総司が、血の色を目立たせないために、黒い手ぬぐいを使っていることは、斎藤も気づいており、それがなんとも切なかった。 でくのぼうのように、ただ総司の発作がおさまるのを持つだけの自分が、やりきれない。 なぜ、総司に刀を抜かせてしまったのか。 もっとうまく説得できなかったものか、斎藤は自分を責めていた。 ふふ、と低く漏れる笑いに、斎藤は我に返った。 素早く手ぬぐいを懐に押し込んだ総司が、顔を上げて、斎藤を見遣った。 まだ息が荒い。 汗のにじんだ額に、幾筋かの髪が張り付いている。 「まいったな、斎藤さん・・・、本当に抜かないんだもの」 その顔からはすでに、先ほどまでの殺気は見事に拭い去られていた。 少し苦しげではあるものの、いつも通りの総司の笑みだった。 「私に斬られるつもりだったんですか?」 「いや・・・」 斎藤は、困惑して言葉を途切れさせた。 斬られてもいいと思っていたのか、それともすんでのところで刀を抜き、防ぐつもりだったのか。 もう一太刀、総司が振るうことができていたら、いったいどうしていたのか、自分でもわかっていなかった。 ただ、そう聞かれたことで、逆に斎藤自身も、ふと思い当ることがあった。 「それは、お互い様だろ、沖田さん」 確信しながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。 総司が、小さく息を呑むのがわかった。 「あんたこそ、俺に斬られてもいいと思ったんじゃないのか?」 張り詰めた沈黙。それが、そのまま答えのように、斎藤には思えた。 総司は、先ほど呑み込んだ息を吐き出すように、ふぅっと肩の力を抜くと 「やだなあ、そんなこと・・・、あるはずないでしょ」 そう言って、苦笑いを浮かべた。 「考えすぎですよ、斎藤さんは」 そうだったら、どんなにいいかと、斎藤は思った。 おそらく、総司は賭けたのだろう。 今の状態で、自分と対等に渡り合えるかどうかを。 だから、無茶を承知で剣を抜いた。 もし腕が落ちているなら、いっそ斬られてしまってもいい、と思ったのか。 それほどまでに、総司は剣士でありたかったのだ。 けれど、命懸けの勝負の行方を裏切ったのは、己が身体だった。 たった一振り分しか、自分の体力がもたないことを、思い知らされる羽目になるとは。 (あんたほどの天才が・・・) 斎藤は、悔しさにこぶしを握り締めた。 こほっ、と軽い咳き込み。 斎藤が、ハッと顔を強張らせたのがわかった。 だが、総司は落ち着いて口元を押さえ、息を整えながら、治まるのを待った。 「だいぶ、苦しいんじゃないのか」 斎藤の言葉に、 「大丈夫ですよ、もう慣れてます」 そう言いながらも、ふいに遠い目になる。 「そうですよね、今の私じゃ、誰も斬ることなんかできない。誰かに斬られる 資格すら、ないかもしれない」 静かな、感情の乱れを微塵も感じさせない声を、ゆっくりと紡ぐ。 その顔には、あきらめとも悟りとも取れるような、穏やかな微笑があるのみだった。 斎藤は、眉根を寄せ、視線を逸らした。 こんなに哀しい総司の姿は、初めて見たと思った。 いつもと同じように装っていながら、その心の奥底の絶望が、ゆらりと透けて見える。 強いはずだと信じ込んでいた目の前の男は、まさに今、折れる寸前の細い枝のように感じられた。 跳ね返せ!と、必死に念じていた。 (まだだ! まだ大丈夫だろう。あんたは、これくらいで負けてしまうほど、 弱くなんかないだろう) 人と言うのは、なんて先の見えない生き物なのか、と斎藤は思った。 踏み出したその足元に、どんな闇が待ち構えているのか、誰もわからない。 強さと弱さは、常に背中合わせなのかもしれない。 そして、それは誰にも責められないのだろう。 深いため息の後、ぼそりと声を落とす。 「もういい・・・。このまま休んでくれ、沖田さん」 はっと、総司は身じろいだ。 斎藤の声にこめられた苦渋の響きに、驚いたのだ。 今まで、斎藤がこれほど苦しげな声を出したことはなかった。 なぜ? まさか自分がそうさせているのか。 いや、わかっていたはずだ。 斎藤ならと思い、信じて、一番嫌な役目を背負わせようとしたのだ。 なのに、こんな自分を気遣ってくれている。 言葉も少なく、無表情な斎藤の内心に隠された、思いがけないほど細やかないたわりを、総司は、ひしひしと感じていた。 それは、ありがたいと同時に、どうしようもなく切なく胸に迫った。 気がつけば、ただ素直に頭を下げていた。 「・・・すみませんでした」 うなだれた総司の肩を、斎藤は無言のまま、ぽんぽんと何度も軽く叩いた。 まるで、不器用に子供をあやすように。 いつのまにか、風の音もやみ、静寂がさらに深くなっていた。 |
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<続く> |