天狼の哭く夜  


    −その壱−



斎藤一、新選組に帰隊。
この知らせは、ひそかに隊士たちの間を駆け巡った。
実際に、帰ってきた斎藤の姿を目にした者は数人であり、なおかつ、ごく最近入った隊士の中には、斎藤の顔を知らない者もいた。
それでも、伊東甲子太郎率いる御陵衛士(ごりょうえじ)に同行し、新選組を離れたはずの斎藤が、なぜまた復帰したのか、そんなことが許されるのか、誰もが疑問に思っていた。
そう、事情を知っている幹部数名を除いては。


       ******


緊急を要する大事な報告を、近藤勇と土方歳三にし終えて、斎藤は再び与えられた自分の部屋で、ほっと一息ついていた。
土方の命で間者として御陵衛士に同行し、彼らの動きを見張り始めてから、半年以上が過ぎていた。その間、御陵衛士たちに疑われることもなかったのは、剣を振るうことにのみひらめきを見せる、ひたすら無口な斎藤の態度によるところが大きいだろう。
まさに、一番らしくない者を、土方は間者に指名したのだ。
そして、それは功を為した。

今回、伊東たちのとんでもない計画を知り、斎藤は即座に知らせに戻った。
無事、御陵衛士たちの詰める高台寺の月真院を抜け出し、新選組の屯所まで辿り付くことができ、張り詰めていた気がほぐれたのか、けだるい疲れを感じていた。
これから先、起こるであろうことを想像すると、暗澹たる思いにかられる。
いや、いずれこうなることは予測していた。そのために、自分が間者の役を任されたのだから。


とりあえず、しばらくは表に出る任務はないだろう。
さすがに、自分が新選組に戻ったことが、御陵衛士たちにばれてはまずい。
伊東たちが分派と称して新選組を離れる際、これ以後、新選組と御陵衛士間の隊士の行き来を禁止すると言う約束ができていたし、なにより、自分がここにいることは、すなわち間者として御陵衛士たちの計画を持ち帰ったことを示している。
知られれば、自分が狙われるだけではすまない。
御陵衛士たちの警戒は厳重となり、どんな形で新選組に報復してくるかわからない。
そのため、当分屯所の奥に身をひそめ、さらにこれからは斎藤ではなく、山口と名乗ることになっている。


(すべて片付くまで、俺の仕事はなしか)
斎藤は他人事のように思うと、畳にごろりと横になった。
土方が早急に策を練るだろう。おそらく、斎藤が予想しているに近い策を。
だが、その計画の中に、自分の出番はなさそうだ。
すでに日も落ちている。少し眠ったほうがいい。
そう思った時、ふいに障子に人影が映った。
とっさに、身を起こし、反射的に刀に手をやる。



「斎藤さん」
聞き慣れた、のどかな声。斎藤は、小さく安堵の息をついた。
「入ってもいいですか」
「ああ」
からりと障子を開けて、沖田総司が顔をのぞかせた。
屯所に帰ってから、近藤と土方以外、初めて顔を合わせた幹部だった。
斎藤の眉が、かすかにひそめられる。
この屯所を離れた時より、総司が少し痩せたように見えたからだ。
病が進行しているのでは、と言う危惧が心をかすめる。


「嫌だなあ、久々に会ったのに、そんな怖い顔して」
総司のおどけた声に、あっと思い、愁眉を開く。
(あいかわらず敏いな。すぐに俺の顔色を読んだのか)
斎藤は、わざとあくびをして見せ、だるそうに言った。
「すまない、さすがにちょっと疲れた」
うんうんと総司は頷くと、少し間を置いて座った。


「お役目、ご苦労様でした」
総司は、かしこまった調子で言ったかと思うと、すぐに
「それにしても、斎藤さんて間者の仕事もこなしちゃうんですね。驚いたなあ」
と、いたずらっぽい目をした。
「別に。どんな仕事でも、任されたらするしかないだろう」
ぶっきらぼうな斎藤の答えに、ふぅんと頷くと
「やっぱり、その無表情がいいんでしょうね。考えが読めないもの」
と、感心したように言う。
「沖田さん、それ、褒めてないだろう」
ははっと笑い出す総司の顔を見て、あらためて戻ってきたのだと実感する。
やはり、自分のいるべき場所は、ここ新選組なのだ。


けれど・・・
すでに、以前とは違ってしまっている。
新選組は、わざわざ伊東一派と言う異分子を取り込み、当然の如く分裂し、そのことが更なる軋轢を生もうとしている。
伊東たち御陵衛士は、新選組局長近藤勇の暗殺を計画していたのだった。
しかも、決行予定の日まで、さして間がなかった。
そのことを知った斎藤は、血の気の引く思いで、ここへ知らせに戻った。

先ほど、その報告を聞いた近藤と土方は、激怒した。
特に、土方の怒りは並大抵ではなく、おそらく、冷酷な御陵衛士殲滅計画を練ろうとするだろうことが予想される。
相手より先に、こちらが攻撃しなければ、手遅れになるのだ。
もちろん、ぎりぎりまでは他の幹部たちにすら、秘密にする必要がある。
斎藤も、固く口止めされていたが、それでも自分が戻ったことだけでも、何かあると勘ぐられても無理はなかった。


だから今、総司が何をしに来たかは明白である。
だが、それに応えることなど、できるはずもない。
斎藤は、のんびりした様子を見せながらも、気を引き締めた。
総司は、人の思惑を読み取るのがうまい。勘も鋭い。
たぶん、ある程度の憶測はつけているものと見たほうがいいだろう。


思った通り、総司はふいにその顔から、笑いを消した。
まるで斎藤の内心を射抜こうとするように、強くまっすぐな視線を当ててくる。
「で、斎藤さん、いったい何を掴んだんです?」
口調にも、いつもの総司に似合わない、ひやりとした響きが混じる。
斎藤は押し黙り、じろりと総司の顔を見返した。
真剣の斬り合いの如く、視線と視線がぶつかる。空気がびんと張り詰める。
一瞬の後、斎藤はあきらめたように、ふっと目を細めた。
ごまかしが効くような相手ではない。


「悪いな、沖田さん。今は言うことはできない」
斎藤は、正直にそう言った。
総司は、その答えがわかっていたかのように、ため息をついた。
「やっぱり口止めか。土方さんてば、いつまで人をつんぼ桟敷に置くつもりなんだか」
「いや、沖田さんだけじゃない。近藤局長と土方さん以外、誰も・・・」
「わかってますって」
総司は、小さく肩をすくめた。
「それくらい、大変なことをしでかそうとしているんですね、高台寺党」
ふっと、口元に薄く笑いを刻む。
「となると当然、先手必勝・・・かな。土方さんの考えそうなことは」
斎藤は、答えなかった。答えないことが、すでに認めることになると承知しながら、何も言うことができなかった。


「図星かあ」
そこまで言われても、やはり斎藤は言葉を発しなかった。
総司が、かすかに横顔を翳らせたのがわかった。
御陵衛士の中には、総司と仲のよかった藤堂平助もいる。
どれほどか、総司が藤堂のことを案じているか、想像するだけで斎藤の胸は軋んだ。
「私は、きっと何もさせてもらえないんでしょうね」
総司の笑みが、自嘲めいたものに変わる。
「この頃じゃ、巡察さえ休まされてる。まるで重病人扱いだ」
斎藤は、あいかわらず何も言えずにいた。
やはり、総司はだいぶ体調が悪いらしい。気掛かりが、さらに増えたことで、むっとしたように眉をしかめ、押し黙っていた。
そんな斎藤の様子を、総司はしばらく探るように見ていたかと思うと、ふふっと可笑しそうに笑いをもらした。
思いがけないほど明るい響きに、斎藤は顔を上げる。


「助かるなあ、斎藤さんは。へたな慰めもごまかしも、一切言わないんだもの」
「いや、その・・・」
斎藤の言い訳を押し留めようとするように、総司はひらひらと片手を振った。
「いいんです、いいんです。斎藤さんは、やっぱりそうでなくちゃね」
先ほどまでの重苦しい空気は消え、いつも通りの、のどかな様子の総司がそこにいた。
「すみません、押しかけてきた上に、勝手なことばかり言いました」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「そんなことは、別に・・・、構わんが」
何と答えていいものか迷い、斎藤は、ぎくしゃくと言葉を押し出す。
「斎藤さん」
総司は、凛とした声で呼びかけた。
少年のような瞳が、再びまっすぐに斎藤を捕らえる。



「私たちは、もう戻れない路を進んでるんですよね、それぞれが」
斎藤は、頷く代わりに、かすかに目を細めた。
総司は、何かを、自分の中で納得させたようだ。
言葉を差し挟む気はなかった。その必要もないだろうと思った。
「どんな目に遭おうと、自分が決めたことなら仕方ない。誰だって、覚悟の上だ。だからこそ・・・」
総司は、まなざしを強めた。


「私も、自分の生き方は自分で決めたい」


それは、病などおしても、任務に出たいと言うことなのだろう。
何かが起ころうとしている今、たとえつらい戦いにでも赴くと言いたいのだ。
そうすることが、自らの路を選んだ藤堂に対する、総司なりの誠意なのだ、と。
斎藤は、しばらく間を置いた後、ぼそりと声を落とした。
「そうだな」
それが叶わぬ時もあるのだと、苦い思いを噛みしめながら。


だが、総司は、視線を逸らそうとしなかった。その瞳には曇りがない。
もしかしたら、この男は、自分の意志の届かぬ場に追いやられたとしても、その中で自分なりのけじめをつけて、前を向こうとするのかもしれない。
どんなふうに納得するのか、どんな希望に繋ぐのかはわからない。
けれど、絶望したり、投げやりになったりする総司を、今までに見たことがないことに、斎藤はあらためて気づいた。
どんな時でも、いつのまにか気を取り直して、からりと笑っている。
斎藤には、それが眩しくもあり、切なくもあった。


(それがあんたの、あんただけが持てる強さか・・・)


本当の強さとは、決して折れまいと頑なになることではなく、折れるぎりぎりの限界からでも、しなやかに立ち直れることなのかもしれない。
ならばこれから先、何があっても、変わらずに強いままでいてくれと、斎藤は祈るように思った。
そうだ、自分は総司の暗い顔など、見たくはないのだ。
斎藤は黙ったまま、総司に向って微笑んだ。


しめやかに重たい闇を縫い、惨劇の気配は、すぐそこまで近づいていた。


 <続く>