−其の陸−



(密虫・・・)

手の中で香る藤の花の一房が、博雅の正気を目覚めさせた。
そうだ、こんなところであきらめている場合ではない。
早く清実を探さなくては。この竹林のどこかにいるはずの友のために、自分はここまでついて来たのだから。
絶対に清実をみつけ、助ける。
そして、帰るのだ。密虫の待つ屋敷へ、晴明と一緒に。


博雅は、藤の房をそっと懐にしまい込み、必死の思いで立ち上がると、目の前の白い娘を無視して、踵を返した。
この娘に惑わされ、踏み入ってしまったことが間違いだった(今さら遅いのだが)。
とにかく来た方向へ戻らなくては。
そう自分に言い聞かせ、薄闇に目を凝らして、道らしきものを見定めようとした。
だが、どうしたことだろう。
先ほど、入ってきたはずの辺りは、びっしりと隙間なく竹に覆われていて、身体どころか足を踏み入れることすらできそうにない。


博雅は怪訝に思いながら、探る場所を変えて行く。
(ここはだめだ、ではあっちか。いや、ここも通れない。そんな・・・)
ぐるりと、四方をほぼ見て回ったが、どこにも進めそうな箇所がみつからない。
娘は、ただじっと佇んだまま、何もしてこないし、何も言わない。
まるで、気がすむまで無駄な努力をすればいいと、諦観しているように。
博雅の背中に、再び冷たい汗が伝い始めた。
いったいどこに? どの方向から自分は来たのだろう。どこなら出られるのだ。

考えたくない想像が、博雅の頭を占めてくる。
まさか、本当に閉じ込められた? 出られない、だと?
足元に散らばる骨が、不気味なほど存在感を増す。
このままでは、自分も・・・
(落ち着け、落ち着いて探すんだ)
わななく手で、竹の壁を探る博雅の耳に、またしても娘の声ならぬ声が入り込んできた。


――― 申したはず。ここからは出られぬと。


「お、おまえはなぜ・・・ こんなふうに、な、何人も閉じ込めているのか!」
自分の声が、悲鳴のように聞こえる。
唇が震えているのがわかった。
娘は、あいかわらず無表情で、幻のように佇んでいる。
出られない!
ぞっとするほど冷え切った事実が突き付けられる。

出られないと言うことは、外から入ってくることも叶うまい。
いや、自分がここにいることすら、気付いてもらえないかもしれない。
助けが来ることもなく、竹の檻に捕らわれ、徐々に弱って行くのか。
博雅の胸を、絶望が塗りこめて行く。
知らず、目を閉じ、祈っていた。


(助けてくれ、誰か・・・ 晴明、晴明!)


ばさばさっ、と頭上で音がした。
どん、と何かがぶつかる衝撃が、下方の竹にも伝わる。
思わずたじろいだ博雅の周りに、竹の葉が盛大に降ってきた。
何事かと仰ぐ間もなく、ひゅーっと黒い物体が真っ直ぐに落ちて来る。
それは、博雅の脇をかすめて、どさりと地面にぶつかった。

天上に空いた穴から淡い光が射し込む。
博雅は、動かない黒いかたまりを、恐る恐る覗きこんだ。
翼を不自然な格好に開いて、横たわる鳥。
からす、か?


「さ、朔夜? まさか・・・」
手を差し伸ばそうとして、ぎょっとした。
あちこち羽が折れたりちぎれたりしている。怪我もしているかもしれない。
相当強引に、天上の竹を突き破ったに違いない。
その衝撃で、気絶したまま落ちてきてしまったのだろう。


「朔夜・・・ おい、朔夜」
かがみ込んだ博雅の懐から、藤の花がこぼれた。
ふわりと香りが立つ。清浄な気が漂う。
からすの羽が、ぴくりと震えた。
弱々しく、だが必死に身体を動かそうとする。

「無理だ、朔夜。まだ動くな」
博雅は、泣きそうな声を出した。
来てくれたのだ、自分の祈りに答えるように。こんなに傷ついて・・・
とてつもなく、朔夜が健気に思えた。
からすは博雅の声など耳に入らないかのように、ぎこちない動きを繰り返しながらも、ようやくよろよろと立った。
力を振り絞るように足を踏ん張り、くちばしにくわえていた紙のようなものを、地面にぐっと押し付ける。



ざわざわっと風が走り、前面の竹の壁に当たる。
博雅は、驚いて目を見張った。
「これは・・・、晴明の呪符か」
晴明が、朔夜を寄こしてくれたに違いない。
もしかしたら、これで道が開けるのか。
博雅は期待をこめて、竹をみつめた。
だが、呪はわずかに竹の一部をしならせたにすぎなかった。
波動は、あっと言う間におさまってしまう。


だめか・・・
博雅は落胆した。
やはり呪符があるだけでは、足りない。
晴明が使ってこそ、そこに威力が生まれるのだ。
いくら朔夜が晴明の式であっても、その力までは運べない。
まだ呪符を地面に押し付けている朔夜に、もういいと言ってやらなければと思いながら、博雅は呪符が当たった場所の竹を、やるせなげに見遣った。



どくん・・・と、胸の奥が鳴る。
何だろう、この気配。
何か、不思議な気を感じる。分厚い竹の壁の向こう側からだ。
朔夜の呪符から発せられたより、さらに強い風圧がかかってきているように。
(まさか、これは・・・)
凝視している間に、見る見る竹の一部が、こちら側へとたわんでくる。
みしみしと、竹の抵抗を押しやる音がする。
とっさに、博雅は朔夜を拾い上げ、懐にかばった。


ばきっ、と鋭い音と共に、頑丈な壁が破れる。
竹の破片や葉が、大量にばらばらと舞う。
すさまじい旋風が吹き抜け、その反動で博雅は尻餅をついた。
驚きと痛みとで、涙目になる。
ぽっかりと穴が空いたように、大きな暗がりがそこにできていた。
何が、誰が現れるのだろう、もしや・・・ 
博雅の目が吸い寄せられる。



「やれやれ、意外に近かったのだな」


竹の葉を払いながら、何食わぬ様子で晴明が姿を現した。
これは夢か? 
博雅は信じられない思いで、白い狩衣を見遣った。
「無事か、博雅」
ついぞ聞いたことがないような、優しい声が響く。
呆然としていた博雅の目が、ようやく焦点を結んだ。
「せ、晴明・・・、晴明〜〜!」
泣きつかんばかりに晴明ににじり寄った博雅は、次の瞬間、はっとして伸ばした手を止めた。


晴明が、ひどく荒い息をしていた。
なんでもなさそうに立っているが、薄明かりの下で見るその顔はひどく蒼ざめ、憔悴しているのがわかる。
「だ、大丈夫なのか、晴明」
必死に苦痛をこらえているような晴明の様子に、博雅はどうしていいかわからず、おろおろした。
懐にかかえている朔夜も、ぐったりと動かない。
せっかく皆が再会したと言うのに、博雅は不安に押しつぶされそうになった。


「泣くなよ、博雅」
無理してからかうような晴明の口調に、
「な・・・、誰が泣いてなんか・・・」
そう言ったとたん、ぽろっと涙が伝うのを感じた。
慌てて、ぐいっと拭う。
せめてできることはと、博雅は晴明の背を、そっとさすった。


晴明はしばらく呼吸を整えようと俯いて、じっとしていた。
大きくふぅっと息をつき、ようやくいつもの苦笑を浮かべる。
「なかなか手強い竹でな。瞬時に突き破ろうとして、少し力を使いすぎた」
博雅はただ、うんうんと頷く。声を出すと、また涙が出てきそうだった。
どうしてこうも涙もろいのだ、自分は。


「おまえがみつかって、よかった」
晴明は、穏やかな声でそう言うと、博雅の懐で動かないからすに目を落とした。
「朔夜も無茶をしたようだな」
そっと手を伸ばし、朔夜の頭に触れる。
「上出来だ、朔夜。よくやった」
その声が聞こえたのか、朔夜はかすかに羽を動かすと、がぁぁと小さく鳴いた。

博雅は、安心してまた涙ぐみそうになった。
よかった。こうして、またみんなと会えた。
誰も入り込めないだろうと思っていたこの場所に、来てくれたのだ。
晴明も、朔夜も。自分のために力を尽くして。
どれほどか、ありがたかった。
それだけで、この危機をも乗り切れるような勇気が湧いてくる。


頑張ろう、と晴明に話しかけようとして、博雅は声を飲み込んだ。
晴明がふいに視線を博雅の背後に移し、すっと姿勢を正したのに気づいたのだ。
ひやりとした気配に、自分も振り向く。


―― 陰陽師か。


娘の思念が、響きとなって耳に届く。
何事もなかったかのように、しんとした佇まいのまま、娘はそこにいた。
晴明も、すでに先ほどの疲れを微塵も見せない、凛とした様子で、娘に対峙する。
白い着物の娘と、やはり白の狩衣をまとった晴明。
天から射す淡い光の中に、ふたつの白がぼうっと浮かび上がる。
博雅は息を詰めて、幻のようなその光景に見入っていた。


 <続く>