−其の肆−



淡い月明かりのもと、黒々と竹林の影が近づいてくる。
竹林に入ろうとするなら、道から外れ、伸びている草を踏み分けなくてはならない。
晴明は、あの竹林に行方知れずになった者たちがいると考えているようだ。
博雅の知っている橘清実は、風流なところはあるが、わざわざ暗闇の竹林に踏み入るような酔狂なことをする人間ではない。
自分の意思に反して、竹林へ入るはめになったと言うことか。
(そして、そのために・・・)
博雅は、嫌でも頭に浮かんでくる想像を、必死に打ち消した。
(まだ何もわかっていないうちから、あきらめてどうする)
しっかりしなくては、と自分に言い聞かせ、足を進める。


その時、前面をにらみつけた博雅の目に、ふと何か異質なものが映った。
竹林の手前の草むらに見え隠れする、白いもの。動く気配はない。
薄闇の中で、そこだけが月の光を吸いこんでいるように浮いて見える。
晴明も気づいたようだ。
かすかに、身じろぐ気配が隣から伝わってくる。
「晴明、何だろう、あれは?」
「むやみに近づくな、博雅」
そう言いながら晴明自身は、歩調を変えることなく、すたすたと草むらへ向かう。
一瞬、遅れを取った博雅も、負けじと後を追った。



「これは・・・」
晴明が足を止めて、つぶやいた。
博雅も、驚きに目を見張った。
白い着物を着た子供が倒れている。
ほっそりした小さな身体、髪の様子から、どうやら女の子のようだ。
半分、草むらに身を隠され、うつ伏している。
顔は見えない。背中の辺りまでで切り揃えられた髪が、豊かな流れのように白い衣に散っている。


何か気味の悪いものを想像していた博雅は、それが子供と知って、ほっとしたのか、晴明よりも早く、その場にかがみこんだ。
「おい、どうしたのだ? 大丈夫か?」
博雅は、ためらわずに声をかけると、そっと娘の肩に手を置いた。
ぴくりとも動かない。
軽く揺さぶってみる。

すると、まるで突然命を吹き込まれたかのように、だが、ひどくゆっくりな動きで、娘が身体を起こした。
驚く博雅の目の前で、はらりと長い髪が揺れ、小さな白い顔があらわになった。
10歳くらいだろうか。
ちんまりと整った、人形のような美しい顔。
けれど、切れ長の両の目は閉じたままだった。
身体は起こしたものの、そのままの体勢で動かない。何も言わない。


「あ、えーと・・・、その、聞こえるか? 怪我はしていないか?」
恐る恐る博雅が問い掛けると、娘はこちらへ顔を向ける。
聞こえていないわけではなさそうだ。
しかしやはり、目は閉じたままだ。
(目が見えないのか)
こんなところに一人で倒れていたとは、何かあって親とはぐれたのだろうか。
もしかしたら、この子の親も、この辺りで行方知れずになったのかもしれない。
取り残された不安と恐怖で、声も出せないのか。
(なんて不憫な・・・ 目も見えないと言うのに)


博雅は、できるだけ優しい声を出した。
「我々はあやしい者ではない。宮中に仕える者だ」
娘の様子は変わらない。
「一人なのか? 親御はどこにいる?」
答えはない。娘は黙って、こちらに顔を向けているだけだった。
まさか言葉が通じないわけではあるまい。
何と答えていいのか、迷っているのだろうか。


こんなに小さな子供なのだ。怯えていて当たり前だ。
とにかく、まずは安心させて、何があったか話してもらうしかない。
そう決め込んだ博雅が、さらに言葉を継ごうとした時、

  ガァア、ガァ〜・・・

朔夜の威嚇するような鳴き声が、後ろから聞こえてきた。
とたんに、娘はびくりとして、身体を強張らせた。
鳴き声のした方に無表情の顔を向け、じっと気配を窺っている。
怖がると言うより、警戒しているように見える。
その様に子供らしさがまったく感じられないことに、博雅はふと違和感を覚え、言葉を呑みこんで娘をみつめた。



「騒ぐな、朔夜」
晴明が落ち着いた声でたしなめると、朔夜はすぐにおとなしくなった。
晴明は、視線を朔夜から娘へ戻したが、何も言わない。
先ほどから、ずっと様子を見ていただけの晴明だった。
博雅のしていることに口出しもせず、さほど娘を案じているようでもない。
晴明が何を考えているのか、博雅にはわからなかった。
妙に張り詰めた空気が漂う。
いったい、これは何なのだ?
それぞれが互いの気配を探り合うような、じっとりと重苦しい静寂に、博雅は息苦しさを覚えた。





突然、竹林の方から、ざっと強い風が吹きつけてきた。
みな、驚いて視線を巡らす。
闇の色の竹林が、ざわざわとたわむ。
吹きぬけられなかった風が、その中で暴れてでもいるように、ごぉっと音がして、竹林全体が不気味にうごめいて見えた。


ふらふらと、娘が立ち上がる。
月明かりに浮かぶ白い人形のような姿。
あっけに取られた博雅が、我に返る間もなく、いきなり娘は駆け出した。
「あ、危ない! どこへ行くのだ!」
娘は、草に足を取られつつも、遮二無二、竹林へ向かっている。
まるで、吹きつけてくる風に手繰り寄せられるように。
博雅は、慌てて娘の後を走りだしていた。
たった今、その娘に不審を抱いたことも忘れ・・・。


「待て、博雅!」
晴明の鋭い声が、後ろから追いかけてくる。
だが、すでに博雅の頭からは、昼間、晴明にきつく注意されていたことなど吹き飛んでいた。

―― 動くなと言ったら止まる、だめだと言ったらやめる。 

ちらりとよぎった懸念も、娘を止めなくてはと言う思いの前に霧散する。
白い小さい姿は、すでに竹林に消えていた。
ごぉっ、と唸るような強い風に巻き込まれ、自分もがむしゃらに竹林に飛び込んだ。



   *  *  *  *  *



「え・・・?」
気がつくと、密集した竹に囲まれ、博雅は足を止めていた。
もともと道らしきものもない。
すべての音が吸いこまれたかのように、竹林の中はしんと静まり返っている。
どれほど走ったのだろう。いや、どこを走っていたのだろう。
ずいぶんと長かったようにも、ほんの一瞬だったようにも思える。
不思議なことに、竹林に踏み入った時からの記憶がおぼろげだった。

ぽつんと取り残されたような場所。
博雅は戸惑いながら、周りに視線を巡らせる。
静かだった。静かすぎるほどに。
さきほどまでしていた風の音も、竹がしなる音も、葉擦れの音も、この場所にあるべき音がいっさいしない。
訝しく思いながらも、博雅はすぐに別のことに気を取られた。


入り組んだ竹の隙間から、こちらを向いて佇む娘の姿が見えたのだ。
周りから覆いかぶさってくるような竹の暗がりに浮かぶ、ぼぉっと白い姿。
人形じみた白い顔に、白い着物。
なぜか、ぞくりと背筋に走った寒気を振り払おうと、博雅はわざと「おーい!」と声を張り上げた。
「よかった、無事だったか。今そっちへ行く。早くここから出よう」
ところが、


―― 出られない・・・ ここからは 出られない・・・


ふいに低い声が聞こえた。いや、聞こえた気がした。
他に誰もいない。それは、娘から発せられたものであるはずだった。
「しゃべれる、のか」
そうつぶやいてから、博雅は、即座に否定した。
違う!今の声は、耳に直接届いたわけではない。
娘とは、距離がある。声を張り上げなければ聞こえないくらい。
だが、今聞こえたのは、耳元で低くささやかれたような声だった。
まるで、娘の思いが心の中に流れ込んできたような・・・


またしても、ひやりと背筋に冷たさが走る。
「おまえは、いったい・・・」
思い切って娘に近づこうと、一歩踏み出した博雅は、何かに足を取られて転んだ。
足元が、ひどく暗かったのだ。
竹の根と言うのは厄介だな、と眉をひそめ、次の瞬間、それもまた勘違いであったことに気付いた。

地を走る竹の根に躓いたわけではない。
何かを踏んだのだ。ごろりとした何か・・・
手で探ると、それは木の枝のような細長いもの。
どうやら、いくつも転がっている。
だが、ここは竹林。木の枝など落ちているはずはない。
さらに手探った博雅は、今度は丸い塊に気づいた。
持ち上げて、恐る恐る顔に近づけてみる。


「う、うわぁっ、これは!」
とっさに投げ出していた。
闇に慣れ始めた目に映ったもの、それは間違いなく人の骨、しゃれこうべだった。
かさかさと乾いた、嫌な感触が指に残る。
博雅は、恐怖で頭の中が真っ白になった。
ここから出られずに、のたれ死んだ者がいるのだ。

逃げなくては・・・ その思いだけが、ぐるぐると回った。
だが、慌ててその場から飛び退った博雅の足は、またしても何かを踏んだ。
「ひぃぃっ・・・」
博雅は、腰を抜かした。
思わず地面についた手に、先ほどと同じ感触が伝わってくる。
この辺り一面、白骨と化した人の亡骸が散らばっているのだ。

ざわざわ、ざわざわ、と再び竹林の蠢く音が蘇った。
それは、まるで哀れな生贄を嘲笑っているように、博雅には聞こえた。


 <続く>