−其の参−




どれくらい歩き続けているのだろう。
少し傾き始めた陽に目を細めながら、博雅は、いささか疲れを感じ始めていた。
晴明の屋敷から西洞院大路を南へ下り、七条大路へ曲がり、鴨川を渡って、そこからさらに南へ向かっているようだ。
いったいどこが目的地なのかも、わからないまま歩いている。
もっとも、晴明自身もはっきりとはわかっていないのかもしれない。
からすである朔夜が、京の地名を知っているはずはないのだから。


いつもなら、目的地まで他愛ない話をしながら行くのだが、珍しく今日の晴明は、黙々と歩を進めている。
博雅も、来るなと言われたのを、無理やりついてきたことで、少し遠慮していた。
朔夜がいることも、晴明に声をかけにくい原因のひとつではある。

その朔夜は、どうやらかなり疲れてきているのか、足取りが怪しくなってきていた。
いかにも、かったるそうに運ぶ足元が、時折ふらりとよろける。
背の高い後ろ姿も、いつしかうなだれたように前かがみになっている。
しかも、道案内のはずなのに、時折晴明や博雅より遅れて、後からついてくる格好となる。


晴明は、だいたいの道筋はわかっているらしく、別に咎めようともしないが、博雅は大いに不服だった。
自分だって、十分に疲れているのだ。
(でかい図体して、なんだ、こいつ?)
博雅は、小声でぶつぶつと文句を言った。
すると、その声が聞こえたかのように、
「疲れたのか、朔夜?」
晴明が、そっけない声で問い掛けた。朔夜の返事はない。
晴明は怒るでもなく、やれやれと言うように、首を小さく振り、
「わかった。飛んでもいいぞ。ただし、どこぞに隠れて姿を変えよ」
と、道端の木陰を指差した。


のそりと、朔夜の姿が木陰に消える。
次の瞬間、ばさばさと枝が揺れ、真っ黒な翼を広げたからすが飛び立った。
ぎょっとして眺める博雅に、晴明は
「すまぬな。まだ人として歩くことにも、あまり慣れていないのだ」
そう説明した。
晴明の声に被るように、頭上でからすの鳴き声がした。
やけに、晴々と聞こえる。
飛ぶことができて、嬉しいのかもしれない。

(なんだ、晴明のやつ、やけに朔夜に甘いではないか)
思わず、博雅が内心不満をもらした、そのとたん、
ガアァァ〜〜ッ・・・
いきなり耳触りな鳴き声が近くでしたかと思うと、どさっと肩に何かの重みが乗っかった。
衝撃で、前につんのめりそうになる。
え?、と首を回そうとして、博雅は、信じられないものを目にし、悲鳴を上げた。
「ぎゃあぁああ〜〜!」

肩の上の、ずしっとした重さのそれは、なんとからす・・・朔夜だった。
間近で見ると、無機質な目がやけに怖い。くちばしも鋭く、今にも頭を突っつかれそうだ。
動揺する博雅の肩に、朔夜の爪が、がっきりと食い込んでいる。
ガァ、ガァア〜〜・・・
耳元で、朔夜が鳴き声を上げる。開いたくちばしが、そのまま自分の顔を襲いそうで、博雅は慌てて、朔夜を振り落とそうともがいた。
「わ、わ・・・、お、降りろ、朔夜!」
だが、朔夜の爪は、ますます博雅の肩に食い込むばかりだ。
「い、痛い! こらっ、降りろってば!」

取りみだす博雅を見て、晴明が可笑しそうに、くつくつと笑う。
「博雅、落ち着け。おまえが暴れるから、朔夜はよけいにしがみつくのだ」
「ば、ばかな・・・、落ち着いてなどいられるか! 晴明、こいつを追い払ってくれ!」
博雅は、顔をひきつらせて、じたばたしている。
手で振り払おうにも、朔夜に突かれそうで怖くてできないのだ。

「そんなに嫌わずともよかろうに」
晴明は、苦笑いをもらすと、
「朔夜、どいてやれ」
そう言って、小さく呪を唱えた。
朔夜は「カァァ〜」と一声、のどかそうに鳴くと、ばさばさと博雅の肩から飛び去って、頭上を旋回し始める。


はぁ〜、と博雅は息をつくと、晴明を恨みがましい目で睨んだ。
「い、いったい、何なんだ、あのからすは。寿命が5年は縮んだぞ」
「博雅、そんなに怒るな」
晴明は、笑いをこらえるような顔で、博雅の抗議をやんわりとたしなめると、
「どうやら、朔夜はお前が気に入ったらしい」
と、とんでもないことを言ってのけた。
博雅は、あんぐりと口を開けた。
冗談ではない。
どこをどう取ったら、あれが気に入った者に対する態度になるのだ?

「ばかを言うな。どう見ても、あれは私をつつく気だったとしか思えんぞ」
憤慨する博雅に、晴明は、くくっと笑いを漏らす。
「からすが人に懐かないのは知っているだろう? 肩に乗るなど、たいしたものだ」
「だから、あれは・・・、もういい! 勝手に笑っていろ!」
抗議をあきらめ、博雅はむくれてみせた。

間違いなく、朔夜は自分を怖がらせようとしていた。
いや、もしかしたら、からかったのかもしてない。
気に入っただなどと、晴明までふざけているのか?
第一、オスのからすに好かれて、どう喜べと言うのだ!
どうせ好かれるなら、真っ先に密虫にお願いしたいものだ。
そう思ったとたん、懐から甘い香りが漂い、博雅の顔がにやける。
晴明に悟られないよう、慌てて、わざと仏頂面を作った。



「そう言えば、どうして朔夜を式にしたのだ?」
博雅は、前から気になっていたことを問い掛けた。
鳥を式に、と言うのはわかるが、からすでなくともいいように思う。
もっと小さい鳥や、飛ぶのが速い鳥もいる。
「落ちていたからだ」
晴明は、こともなげに言った。
「え? 落ちて、とはどういうことだ?」

きょとんとする博雅を、晴明は横目でちらりと見て、薄く笑った。
「言葉通りだ。道に落ちていた。死んでいるのかと思った」
博雅は、眉をしかめた。
「大きな鳥に襲われたか、それとも石でも投げられたとか?」
思わず心配そうな口調になる。
「いや、たぶん・・・呪詛返しにあったのだろう」
さらりと言ってのけた晴明の言葉に、博雅はぎょっとした。



呪詛返し。
陰陽師が、誰かに頼まれて呪詛を仕掛けることがあるのは、博雅も知っていた。
たいていは、政敵。あるいは恋敵と言うこともある。
もちろん、おおっぴらにできることではない。
こっそりと、大金を積んで、呪詛を頼むのだ。
晴明は、そういう依頼を受けない。ただし、呪詛を払ったり、阻止したりすることは、よく頼まれる。

呪詛返しとは、相手が仕掛けた呪詛を、そのまま相手に返す技だ。
その呪詛が強いものであれば、仕掛けた相手が逆にとんでもない目に遭う。
生き物を式にして、呪詛を相手のところに送ることもあり、もし呪詛返しを受ければ、式も当然無事ではすまないだろう。
その呪詛返しを、朔夜が受けたと言うのか?


「本来なら、死んでいるだろう。下手をすれば、残骸も残らず消え去る。だが、朔夜は生きていた」
晴明の口調が、やわらかくなる。
「それだけ、生きる力が強かったと言うことか」
「まあ、呪詛がさほど強いものではなかったか、呪詛返しをした陰陽師の腕が劣っていたかもしれぬが。それでも、呪詛返しに遭った式が無事なのは、まれだ」
「そうか・・・ おまえに拾われたのは、運がよかったのだな」
博雅も、しみじみと頷く。誰かの勝手で、呪詛を運ばされ、それを返された。
式として、否応なしのこととは言え、朔夜が哀れに思えてくる。
そして晴明が、朔夜に、ごく普通の式としての雑用をさせているのも、納得した。
いささか不器用な式ではあるが、それでも、空から探すことには役に立つ。


「そういうわけだ。だから、おまえもせいぜい可愛がってやってくれ」
そう言って、晴明はふふっと笑った。
博雅は、はっと我に帰る。
「いや、それは無理だ!」
即答する。
だまされてはいけない。
いくら朔夜が哀れな身の上とは言え、自分を怯えさせるのは、別の問題だ。
からかっているのだとしたら、なおさらに許しがたい。
むっとする博雅に、晴明は笑いをこらえるように
「まあ、気長に慣れてくれればよい」
そう言って、少し歩を速めた。
「おい、晴明・・・」
抗議するつもりだった博雅は、うまくかわされたような気がした。

当の朔夜は、少し先まで飛んでいっては、木に止まったり、道に降りたりして、二人が追いつくのを待ち、また飛ぶと言う行為を繰り返している。
勝手に飛んで行ってしまわないところは、一応、式としての自覚があるらしい。


博雅は、先ほどまでの重い沈黙が破れたことで、内心ほっとしていた。
話しながら歩けば、道のりもさほど苦ではなくなる。
晴明に並ぶと、いつものように、あれこれと話しかけた。
いつしか、陽は落ち、周りはすっかり薄闇に包まれている。
ここは、どの辺りだろうと、博雅はふと思った。
もしかしたら、宇治の近くまで来ているかもしれない。


   *  *  *  *  *


「あれか」
ふいに、晴明がつぶやいた。
え?、と博雅は、晴明の視線の先を見遣った。
少し先に、かなり奥行きが深そうな竹林らしき影が見える。
折しも、細い月が光を放ち始めていた。
おぼろげな光のもと、時折ざわりと竹が揺れるような気配がある。

あの中に、行方知れずの者たちがいると言うのか?
道は、その竹林の前で大きく曲がって続いているので、普通なら、わざわざ竹林に入ることもないだろう。
なのに、なぜあの中にいると言うのだろう。
博雅には、暗い影を孕む竹林が、にわかに不気味なものに思え始めた。
背中が、やけに強張る。
清実は大丈夫なのだろうか。心配でならない。


ふと気がつくと、朔夜は晴明の側に戻ってきていた。
両足をぴょんぴょんと揃えて、小さく跳び、前に進む。
どうやら晴明の歩調に合わせているらしいのが、博雅には、やけに律義に見えた。
(やはり式と言うのは、不思議なものだ)
場違いにのんびりしたことを考えてしまうのは、それだけ不安が増しているからだろうか。

隣を歩く晴明からも、ぴりりと張り詰めた気が伝わってくるようだ。
やはり、あの竹林に何かある。おそらく、禍々しい何かが・・・
博雅は、息を呑んで、薄闇に目を凝らした。



 <続く>