−其の弐−



「博雅、おまえはもう帰れ」

いきなり晴明にそう言われて、博雅はぽかんと口を開いた。
いつものように「行くぞ、博雅」と言ってくれるものと思っていただけに、帰れと言う言葉を、額面通りには受け止めかねた。
そうか、何か自分が家で用意してくるものでもあるのかもしれない。
必死に、そこに思い至った。
指図を待つ童のように、期待と不安をこめて、じっと晴明の顔をみつめる。
だが、晴明はまったく感情を見せぬまま、すっと視線を外した。

「聞こえなかったか? この件は陰陽寮としての仕事なのだ。お前は関わらなくてよい」
「な、何を・・・」
「とにかく、私はこれから準備しなくてはならないことがある。すまぬが、お前の相手はしていられぬ」
晴明は、冷淡にさえ聞こえる口調でそう言うと、くるりと背を向けた。
部屋から出る間際に、ためらいがちに小さく振り返り、
「博雅、このまま帰れ、いいな?」
先ほどより少しだけ優しい声音で、そう念を押した。



ぽつんと取り残され、博雅は途方にくれた。
いつも何か起こるごとに、晴明と一緒に行動するのが当たり前になっていたのだ。
なぜ、帰れなどと・・・
どうすればいいのだ、自分は?
何が何だかわけもわからず、家でただ待てと言うのか。
行方知れずになった一人は、自分の友達なのに、どうして手伝わせてもくれない?

心配ともどかしさで、だんだん腹が立ってきた。
博雅は、どすんとその場に座り込んだ。
誰が帰るものか・・・
腕を組んで、どっかと腰を据える。
(行くぞ、絶対について行く。晴明が出かけるまで、ここで待ってやる!)

しかし、屋敷の中はしんと静まり返り、まるで他に誰もいないような錯覚に囚われる。
晴明を待つと意気込んだものの、まったくの空回りにすら思えてきた。
ゆるゆると時だけが過ぎる。
一人で座り込んでいるうちに、張り詰めていた気が緩んできたらしい。
博雅はいつのまにか、うつらうつらと居眠りに落ちていた。


   *  *  *  *  *



「博雅?」
怪訝そうな声を、遠く夢間に聞き、ようやく博雅は目を覚ました。
どれほどの間、眠っていたのだろう。
随分と時が経ったような気がする。
ぼんやりする頭を、ぶんと振る。
部屋の入り口に、あきれ顔の晴明が立っているのに気づいた。
「あ・・・」
博雅は、気恥ずかしさをごまかそうと、わざと不機嫌そうに、ごしごしと目をこすると、立ち上がった。
(遅い!遅すぎるではないか。おかげで、すっかり眠りこんでしまった)
自分が居眠りをしてしまったことを、心の中でぶつくさと言い訳する。


だが、そんな博雅を無視して、晴明は、
「朔夜、出かけるぞ。案内せよ」
後ろにのそりと従っている朔夜を、促した。
博雅の眠気が、一気に霧散する。
この不気味なカラスと一緒に行くと言うのか。自分を置いて・・・
思わず頭に血が上った。

「ああ、もちろんだ! ちゃんと言うとおりにする」
「私が動くなと言ったら止まる、だめだと言ったらやめる。誓えるか?」
「誓うとも!」
博雅が生真面目な顔で言えば言うほど、晴明は疑いたくなる。
だが、小さくため息をつき、不承不承と言った様で頷いた。


パッと顔を輝かした博雅から視線を外し、
「では、行ってくる」
晴明は、後方に声をかける。
いつの間にいたのか、密虫が楚々とした風情で控えていた。
透き通るような白い頬に、黒髪が影を落としている。
礼を取る密虫に、ひとつ頷いてみせ、晴明はさっさと表に出た。
無言のまま、朔夜が続く。
名残惜しげな顔で、博雅が門を出ようとすると、
「あの・・・、博雅さま」
密虫が、声をかけた。


「え?」
博雅は、思わず間の抜けた声を出した。
密虫が、ふわりと笑みを浮かべる。
「これをお持ち頂けますか」
そう言って、たおやかな仕草で差し出したのは、ひと房の藤の花だった。
「あ、え〜と、これは・・・」
へどもどする博雅の手に、花房を乗せると
「これを懐に・・・。もし、何か差し迫った時には、この花を思い出し、念じて下さい。きっとお役に立ちます」
そう言って、頷いた。

「あ、その・・・かたじけない。いや、だが、私に? 晴明にはいいのか?」
博雅の言葉に、密虫はかすかに首を振った。
「晴明さまは、大丈夫です。邪気を見抜くことも、払う術もご存じですから」
それは、自分が頼りないと言うことか、と博雅はいささか落胆しながらも、密虫の気遣いに感激していた。

だが、顔を上気させた博雅に、密虫は冷静な声で告げた。
「どうぞ、お気をつけ下さい。おそらく、強い念が働いています」
はっと、博雅は息を呑む。
浮かれ気味だった気分に、冷水を浴びせられたようだった。
密虫がわざわざ注意するほど、得体の知れない何かが待っていると言うのだろうか。
背筋がぞわりとする不吉さが、博雅を捕えた。
気を引き締めなければ、舞い上がっている場合ではない。
「わかった、気をつけよう。密虫、ありがとう」
藤の花を懐にしまうと、博雅は慌てて晴明の後を追った。


   *  *  *  *  *


白と黒、黒と白・・・
隙のない晴明の後ろ姿と前後して、ゆらりと歩く背の高い朔夜の姿がある。
光と闇、その対比は、不思議な美しさと禍々しさに同時に感じさせた。
うすら寒さに眉をひそめながら、博雅はついて行く。
どこまで行くのか、何が待っているのか、皆目見当つかない。
不安は募るばかりだ。

ふいに、懐から甘い花の香が漂った。
密虫の守り、密虫の気遣いが、ここに在る。
(大丈夫・・・、大丈夫だ)
博雅は、必死に自分に言い聞かせ、歩き続けた。




 <続く>