射干玉(ぬばたま)  


    −其の壱−



源博雅は、足早に一条戻り橋を渡っていた。
もちろん目指すのは、親友でもある陰陽師、安倍晴明の屋敷である。
晴明は、今日も宮中に出仕していなかった。
それ自体はよくあることなので、今さら批難するつもりはないにしても、なぜか博雅が用があって、一刻も早く会いたい時に限り、必ずと言っていいほど宮中にいないのだ。
だから博雅としては、退出するが早いか、晴明の屋敷へと駆けださなくてはならない。
もっとも、用がなくとも、常に晴明の屋敷に入り浸っている博雅なので、ただ行く道を急ぐか、のんびりするかと言う程度の違いなのだが。

そして、今日はまさに急がなくてはならない日だった。
宮中で、どうにも気掛かりなことを耳にしたのだ。
「晴明め、私が急ぎの用がある時に、宮中にいたためしがないとは、どういうことだ?」
ぶつぶつと文句を言いながらも、晴明の屋敷を目の前にした博雅は、こんな時でありながら、淡い期待が胸に湧くのを感じた。
いつものように、密虫が迎えてくれるに違いない。
控え目でありながらあでやかな、藤の花の式神。
今日は何と言ってくれるだろうか、笑いかけてくれるだろうか、などとあれこれ考え、ゆるみそうになる頬を、博雅は慌ててぱんと叩く。
「いかん、いかん、なんて不謹慎な・・・」
ぐっと顔を引き締め、さらに足を速めた。


   *  *  *  *  *


「晴明、いるか? え?」
博雅は、驚いて目を見開いた
「なんだ、いたのか、晴明」
知らず知らず、声に落胆の響きが混じる。
いきなり目に前に現われたのが、当の晴明だったからだ。
いつもなら奥の部屋で、しどけない様で杯を傾けている晴明が、まるでこれから出かけようとでも言うように、姿を整えている。
雪白の狩衣が、冴え冴えと映った。


ぽかんとした顔の博雅を見遣り、晴明は口元にかすかに皮肉めいた笑みを浮かべると、
「何をがっかりしている、博雅?」
からかうような口調で言った。
「べ、別にがっかりなど・・・」
言い返そうとして、博雅は、はたとここへ来た目的を思い出した。
そうだ、今日はそれどころではなかったのだ。


「いや、それより大変なことが起きて・・・」
博雅は、勢い込んで話し出そうとした。
いつも、宮中で起きた件で晴明を訪ねる時、つい「知ってるか?」と切り出しては、そっけなく「知らぬ」と逸らされる。
なので、この頃では、博雅は晴明への問いかけなしに、説明に移ることにしていた。

ところが、
「知っている」
思いがけぬ答えが返ってきた。
「へ?」
出鼻を挫かれ、あっけにとられた博雅に、晴明は平然と言葉を継いだ。
「橘清実(たちばなのきよみ)どののことだろう? 雅楽寮の笛師の。行方知れずになったそうだな」
「え、あ、そう・・・、えぇっ、なんで知ってるんだ?」
晴明は、やれやれと言うように、苦笑をもらした。

橘清実は、雅楽寮(うたりょう)に勤める博雅の友達だった。
笛を愛する博雅とは気が合い、時には共に奏で、共に感動し合うと言う仲でもある。
そんな清実が、数日前から行方が知れなくなったらしいと、先ほど宮中で耳にし、その足で慌てて晴明を訪ねたわけだ。
今日は出仕していない晴明が、すでに知っているなど、予想外だ。


「おまえが来るより前に、宮中から使いがあった。この件について至急調べてくれと」
どうやら、晴明が頻繁に勤めを休むことについては、お咎めなしらしい。
それ以上に、陰陽師としての才を重視されていると言うことだろう。
晴明は、形の良い眉を翳らせた。
「橘どので、三人目だ」
「え、三人目って?」
「近衛少将の源忠之どの、陰陽寮の暦博士、藤原智久どの。この二十日あまりの間に、続けて行方知れずとなっている」

三人とも、ごく普通の真面目な男であり、悪事に係わっていたとは思えない。
何かに悩んでいたとも見えない。
年齢こそ近いものの、仕事上での係わりもなく、個々のつきあいもない。
周りの者の目にも、特に変わった様子は見られなかったと言う。
ただ、二人目の藤原智久は、行方知れずになる前、同僚に「これから母を訪ねる」と嬉しそうに言っていたそうだ。


以上のことを、晴明は要領よく説明した。
(そんなにも、大ごとになっていたのか・・・)
不吉なものが、博雅の胸をよぎる。
こうして、晴明が動こうとしているのは、明らかに異常な気を察しているからだろう。
友である清実のことを案じて、博雅は居ても立ってもいられなくなった。
「で、どうするんだ。何か考えはあるのか、晴明?」


「待っているところだ」
晴明は、そう言って、ふと空を見上げる。
何をだ、と博雅が聞こうとする前に、
「来た」
晴明は、小さくつぶやく。
ばさばさっと、無遠慮な羽音と共に、いきなり大きなカラスが、目の前に舞い降りた。
次の瞬間、それはすうっと背丈が伸び、見る間に黒ずくめの男の姿に変わった。濡れそぼったような髪が、鬱陶しく顔にかかり、その隙間から鈍い光を放つ目が覗いている。


「げっ、おまえは・・・!」
博雅が、ぎょっとしたように飛び退る。
以前、ある事件に巻き込まれた密虫が屋敷から消えていた間、この不気味な男、いや、式神が、晴明への取次に現われたことがあった。
あまりに博雅が気味悪がるもので、晴明が使うのをあきらめたのか、すぐに姿は見えなくなったのだが。
(なんで、またいるんだ!)
顔を引きつらせる博雅をよそに、晴明はその式神に話しかけた。

「早かったな。で、みつかったのか?」
ぐぅぁあ・・・と、カラスの鳴き声のような音を式神が発すると、
「ちゃんと人の言葉で話せと言ってあるだろう、朔夜。声の出し方は教えたはずだ」
厳しい調子で晴明はたしなめた。
「さくや?」
怪訝な声音の博雅に、
「名だ。式として使うには、名が必要だからな」
晴明は、にやりと笑ってみせた。
何か文句があるか、と言うように。
(式として使う・・・だと? いや、もうすでに使っているし)
またこの不気味なカラスに脅されなくてはならないのか。
博雅は、げんなりと頭を垂れた。


そんな博雅の様子など頓着していないように、晴明は式神に言い聞かせる。
「人としての声を出すんだ、朔夜」
朔夜は、暗く沈む目で、晴明をみつめていたが、やがて、
「あ、るじ・・・、みつ、け・・・た」
やっとの思いで、たどたどしい言葉を紡ぎ出した。

・・・うぇっ、しゃべった!

博雅は、またしても驚愕の目を見張った。
がらがらと、耳障りな声ではあったが、カラスの鳴き声とは違う。
ようやく言葉を覚え始めた子供のようだった。
もっとも、子供のかわいさは微塵もないぞ、と博雅は心の中で強調した。

「そうか、みつけたか。上出来だ、朔夜」
晴明が褒めると、朔夜は無表情のまま、喉の奥をぐるると鳴らした。
どうやら、満足の証しらしい。
だが博雅は、それよりも晴明が繰り返した言葉に、意識が集中した。

みつけた・・・だと?

何を? いや、誰を?なのか。
三人のうちの誰か、それとも全員を? 
やけに早いが・・・。ああ、空から探したからか。
鳥の式とは、便利なものだな。
だが、ちゃんと無事に? まさか・・・

嫌な予感が膨れ上がり、晴明に聞き返すことがためらわれる。
恐ろしい答えが返ってきそうで、怖かった。
朔夜を褒めながら、晴明の顔は厳しいままだ。
博雅の不安は、とめどなく募る。
黒一色の朔夜の後ろ姿を見やりながら、じっとりと底の見えない闇のような気配に押されるのを、必死に耐えていた。

いったい、何が起きたと言うのか?

朔夜と対称的に、白い狩衣姿の晴明。
まるで、闇と光が対峙するような光景だった。
そして、冴え渡る光のような晴明が、博雅にとって唯一の望みの綱だ。
博雅は、その端正な横顔をみつめながら、息を詰めて、晴明の言葉を待っていた。



 <続く>