< 8章 〜共鳴〜 >



姜維は城下にささやかな住居を持っていた。
孔明が、自分の屋敷の近くに探してくれたものだった。
もっとも、ふたりとも仕事に追われたまま、城内に寝泊まりすることが多く、めったに屋敷には帰らなかったのだが。

血まみれの格好で城に戻るわけにもいかず、姜維は暗くなるのを見計らって、久しぶりに自分の屋敷に帰った。
下僕たちに見つからないよう、苦心して自分の部屋までたどり着き、これではまるで忍び込んだようだと いささか自嘲しつつ、扉を開ける。


そのとたん、姜維はハッとして足を止めた。
誰もいないはずの部屋に、仄かな灯りがゆらめいている。
胡牀から すっと立ち上ったのは、
「丞相!」
姜維は驚きのあまり、礼を取ることも忘れ、呆然と立ち尽くした。
なぜ、ここに孔明が・・・



孔明は、すっと衣をさばくと、姜維に近づいた。
「伯約、無事であったか。よかった」
心底安堵したと言う声音。すでに、姜維に何があったか、知っている口ぶりだ。
が、姜維の衣服を汚している血に目をやると、気がかりそうに、眉を寄せた。
「怪我は?」
「いえ、どこも。すべて返り血です」
淡々と姜維は告げた。


知られてしまっていたのか・・・
姜維は、あきらめに似た気持ちに捕らわれた。
つい先ほど為してきた、容赦のない殺生。
たとえ、狙われて仕方がなかったとは言え、できるなら孔明には知られたくないと、自分が思っていたことに、あらためて気づいた。
常と変わらぬ孔明の清雅な姿を前にすると、血なまぐさい自分が、ひどく醜悪なものに思える。
だが孔明は、そんなことは、まったく気にならぬ如く、ほっと小さく息をついた。

「そなたが、いつになっても戻らぬので、もしやと思い、捜索の者を放ったのだ。
先ほど、その者たちがみつけた。城門の外にな」
あからさまに言うのを避けるように、言葉を濁す。
当然、捜索の者がみつけたのは、草地に転がされたままの死体であろう。
無粋な置き土産をしてしまったようで、思わず頭を下げる。
「申し訳ありません」
「いや、そなたが無事ならよい」
孔明は、事も無げにそう言うと、やわらかく微笑した。


自分を心配して、わざわざここまで来てくれたのか。
孔明の忙しさは、側で仕えている自分が、誰よりもわかっている。
その貴重な時間を割いてまで、自分を案じてくれたのだ。
そう思うと、申し訳なさとありがたさとが、胸の内で交錯した。
が、同時に、ふと疑問も湧きあがってきた。
あの惨状を、なぜすぐ自分に結び付けて考えたのだろう。
卑怯なやり方ではあるものの、暗殺の効果は大きい。
この蜀にしても、狙われる怖れのある人物は、少なくないはずだ。


姜維の戸惑いに気づいたのか、孔明はそのまなざしに、厳しさを滲ませた。
「こんなことが起きやしまいかと、気にしてはいたのだ。馬遵は、まだ生きていると聞いたのでな。今の時点で、そなたを恨むとすれば、あの男くらいだろう」
そこまで察していたのか、と姜維は驚きを隠せなかった。
もとの主である馬遵との確執について、孔明に話したことはなかったのだが。

「とは言え、馬遵がここまで手を回すとは、正直思わなかった。いささか油断した。
もっと、そなたの警護を徹底させるべきだったな」
警護だと、自分に? 姜維は、またもや驚愕した。
「必要ありません。私ごときに警護だなどと。それに・・・」
姜維は、きりっと眉を上げた。
「己が身くらいは、護れますので」


まるで頑是無い子を諭すように、孔明は小さく苦笑した。
「わかっている。だがな・・・」
一息つくと、まっすぐに姜維を見据える。
「この先、そなたが蜀の力になればなるほど、他国にとっては厄介だと思われる」
姜維は、黙ったまま、孔明の視線を受け止め続けた。

「もしかすると、これからも狙われるやも知れぬ」
「刺客など、恐れてはおりません」
きっばりと姜維は言い放った。
「それよりも、このようなことで、丞相のお心を煩わせることの方が、私にはよほど心苦しい」
「伯約・・・」
「私は、丞相のお力になるため、ここに在るのです」
それを聞いて、孔明はため息をつき、かすかに首を振った。
ゆっくりと言い含めるように、言葉を継ぐ。

「為すべきことがあるなら、なおのことだ。何事も、生き抜いてこそ、なし得る」
その言葉に、ふと孔明との出会いが蘇った。
あの時も、死ぬ覚悟をしていた自分に、孔明は、生きてこその志しを説いたのだ。
孔明の深いまなざしが、じっと姜維に注がれる。
「そなたが、どれほど蜀に尽くそうとしてくれているのかは、身にしみている。
そなたの武勇も知っている。だが、万が一にも、そなたの身に何かあってほしくはないのだ」
孔明の微笑が、寂しげに翳った。
「大切な者を失うのは・・・、つらいのでな」


ふいに、心の中に、孔明の哀しみが流れ込んできた気がした。
姜維は唇を噛んだ。そのことに思い及ばなかった自分を恥じた。
わかっていたはずだったのに、なんて無神経なことを・・・
自分は大丈夫なのだと、言い張ることにばかり夢中になって、つい頑なな態度になってしまっていた。
先ほどの斬り合いが、どこか気持ちをざらつかせていたのか。
わざわざ孔明につらいことを思い出させ、言わせてしまった。
なんて情けない人間なのだ、自分は。


俯く姜維に、孔明は穏やかに声をかけた。
「聡明なそなたのことだ。どれほど思うところが多くとも、詮無いことは切り捨てようと決めたのだろう」
まるで、自分のことを語るように、孔明の言葉が続く。
「だが、すべてを冷徹に割り切るには、そなたはまっすぐすぎる。ずるく考えることができぬゆえ、己が気持ちばかりを削ることになる」

何か言おうと、口を開きかけた姜維だったが、孔明に制された。
「いや、わかっている。そなたは強いのだな。わかってはいるが・・・」
姜維の肩に、そっと手が置かれた。
孔明の衣から、奥床しい香りが漂った。
「自分自身に 無慈悲になってはならぬ」


張り詰めた気持ちが、ふっと緩みそうになり、姜維は慌てた。
孔明の言う通りだった。
生れ落ちた魏を裏切って、蜀に降る。そのために切り捨ててきた様々なものを思い出すと、いたたまれなくなる。
それでも、自ら選んだ道だ。悔いるのは、後戻りすること。十分にわかっていた。
幸いにも、新たに己が命を賭けられる場所を与えられた。
恩義に報いるために、志しを貫くために、全力で前に進むのだ。
自分へのいたわりなど、微塵も考えてはいられない。
いや、考えてはならないと思ってきた。
ここが死に場所になるなら、本望だ、と。


蜀のため、孔明のために働くと言う決意の下に、自分自身への冷徹な呪縛を為していたのかもしれない。
そのことに孔明は気づき、やわらげようとしてくれていたのだろう。
思えば、どんな時も孔明のまなざしは、温かさを持って自分に注がれていた。
なのに、甘えが出るのを怖れ、己が弱さを直視するのを厭い、心を開くことを避けてきたのか。
「大切な者」と言ってくれた。こんな自分のことを。


「丞相、私は・・・」
言いかけて、言葉に詰まった。
何と伝えればよいのか、わからなかった。
様々な思いが渦巻いて、そのどれもが姜維の胸を熱くする。
孔明は、ひとつ頷くと、澄み渡るような微笑を浮かべた。


「伯約・・・、命をいとえよ」


その一言に、すべてがこめられていた。
言わなくとも、わかって下さっている。この御方なら・・・
不器用に黙り込むだけの自分を、許して下さる。受け止めて下さる。
この御方と、共に歩こうと思ってもいいのだろうか。
引き継がれてきた夢の端に、自分も繋がって行きたい。


姜維の心の深いところで、何かが共鳴した。
清らかな響きを奏でる絃(いと)が震えるように。
まぶたが熱くなるのをこらえ、ぐっと唇を引き締めたまま、姜維は感謝の思いに、深々と頭を下げた。