春告草

              <その一>



――― 梅だったのか。


市中見回りを終えた斎藤一は、ふと流れてきた香りに誘われ、屯所の庭先で足を止めた。
紅梅と白梅が、それぞれの枝先に花をつけ始めていた。
一足先に春が来たかと思われるような晴天。
けれど、夜の底冷えの名残か、空気はひんやりと冴え、梅の香りがことさら凛と際立っている。
その清々しさが心地よく、斎藤は香りに浸りながら、しばし佇んでいた。


「あれ、斎藤さん、珍しいですね」
軽い足音と共に、背後から聞き慣れた声がした。
普段着のままの沖田総司が、のんびりした顔で近づいてくるところだった。
「香りに誘われて、ですか」
その視線が、すっと上がり、
「ようやく咲いた。いい匂いだなあ」
嬉しそうに梅を見遣る。
花を眺めると言う無邪気な行為が、この男にはやけに似合ってしまうなと、斎藤は思った。
今日は総司は非番だった。近所の子供たちと遊んででもいたのか、額にうっすら浮かんだ汗を、無造作に手でぬぐいながら、ふぅっと大きく息を吸い込む。


「梅の花、一輪咲いても梅は梅、ってね」
突然、総司がつぶやいた言葉に、斎藤は面食らった。
総司は、ふふっと笑いを漏らすと
「俳句ですよ。どう思います?」
と、いたずらっぽい目を向けてきた。
どう思うも何も、とあきれながら、斎藤はぼそりと声を落とした。
「・・・ひどい句だな」
とたんに、総司が吹き出す。
「でしょ。土方さんのですよ」
えっ、と驚いた後、斎藤はしまったと、内心首をすくめた。

まさか土方が俳句を詠むなど、想像もしていなかった。
しかも、何だってあんなまずい句を・・・いや、それは考えてはいけない。
土方と顔を合わせた時にでも思い出したら、とんでもないことになりそうだ。
総司は、斎藤の内心の動揺を知ってか、ますます可笑しそうな顔をすると、
「大丈夫ですよ、私なんて面と向って、ひどい出来だって言っちゃったから」
あっけらかんと言ってのけた。


まったく、からかっているのか、無意識なのか、いまだに判断つきかねる。
やれやれと、ため息をつく斎藤の隣で、総司は気を取り直したように、あらためて梅の木を振り仰いだ。
その目は、白梅ではなく、紅梅に向けられている。
「紅梅って、なんだかかわいいですね。紅いけれど、和やかでつつましくて・・・」
そのまま、ふっと遠い目になる。
総司は、続きの言葉を故意に呑み込んだのではないか。なぜだか、斎藤にはそう感じられた。
まるで、誰かのことを思い出してしまったとでも言うように。


(もしかしたら・・・)
あの娘のことかもしれない。
もう半年以上経つが、総司の心にはまだ面影が薄れずに在るのだろうか。
あれ以来、総司はもちろん、周りの者もそのことには触れずにいた。
早く忘れるしかないと、誰もが思ってはいたが、人の心はそう簡単に区切りがつくとは限らない。

(ましてや初恋だったなら、引き摺っても無理はないか)
斎藤の脳裏に、じりじりと暑い、去年の夏の日が蘇った。


    * * * * *


その日、斎藤は突然土方に呼ばれた。
何かまた、表沙汰にしたくない仕事でもあるのか、と思いつつ、土方の部屋に出向いた。
蒸し暑いのに、閉めきったままの部屋で、土方はバタバタとせわしなく団扇を使っていた。
そのわりには、色白の顔はさして汗をかいているようにも見えない。
土方は、じろっと斎藤を一睨みすると、いきなり
「悪いが、総司を探ってくれねぇか」
とぶっきらぼうに切り出した。

あまりにも思いがけない命令に、さすがの斎藤も一瞬、土方の顔をまじまじと見てしまった。
土方は、ばつが悪そうに、
「どうも、女が出来たようだ。いや、まだ想っているだけかもしれねえがな。とにかく、どこのどんな女なのか、調べてもらいたい」
と、早口でまくしたてた。


斎藤はしばしの間を置いて、いささか苦々しい声で答えた。
「隊の仕事なら、どんなことでも引き受けます。だが、沖田さん個人のことは・・・」
土方は、ふんと鼻を鳴らすと
「仕事なんだよ、立派にな。万が一、総司が引っかかった女が、長州の間者だったらどうする?」
取ってつけたような理屈を述べた。
隊士の中には、島原の女たちに入れ込む者もいたし、町で知り合った女と恋仲になる者もいた。
相手が間者かもしれない危険性は、みな同じだろうと、斎藤は思った。


「沖田さんが、そういうことを見抜けないとは、思えませんが」
ぼそぼそと言葉を継ぐ斎藤に、土方はしかめ面をしてみせた。
「他のことはいざ知らず、あいつは女のことは、からっきしなんだよ。免疫ができてねえ」
なるほど、あんたとは違うってわけか、と斎藤が思ったとたん
「俺とは違うってこった」
皮肉めいた土方の声が飛んだ。
斎藤は、ひやっとした。まるで心のうちを読まれたようだ。


だが、ここでうろたえたら、自分の首を締めるだけだ。
斎藤は、わざと平然を装い、食い下がろうとした。
「でしたら、探索方に探らせたらどうです。山崎くんならきっと・・・」
「総司の奴、やたらと敏いからな。探索使ったりしたら、勘付かれた時、面倒なことになる」
あっさりと片付けられた。
自分ならいいのか、と斎藤は聞きたかった。
山崎烝は、優秀な監察方だ。
自分の方がよほど勘付かれそうではないか。しかも、そんな時にうまい言い訳ができるとは思えない。

土方はまたもや、斎藤の心の声が聞こえたような返答をした。
「おめぇなら、総司を心配するあまり、と言い訳すりゃいい」
無茶苦茶だと言いたいのを、斉藤はこらえた。
どうも土方は、総司のこととなると、保護者のようにあれこれ心配し、気を回し過ぎるようだ。
肉親の情と一緒で、いつまでたっても、つい面倒見ずにはいられないと言うところなのだろう。
だからと言って、なぜ自分に白羽の矢が立つのかと、斎藤はげんなりした。


「どうだ、やってくれるか」
斎藤の沈黙を、観念したと取ったのか、土方は口元に笑みを刻んだ。
それでいて、有無を言わせないような凄んだ口調。
斎藤は断る理由を考えるのが、億劫になった。
「承知」
不機嫌そうに聞こえないよう、ひたすら無感情な声を装い、頭を下げた。
汗が一筋、額から伝い落ちた。


            
 <続く>