偽りの死線 …エピローグ…



 いつからここに立っているのか。
 ゆっくりと思い返してみた。が、頭は白く濁り、はっきりと思い出せることはひとつもない。
 頭の中と同じように、視界は白く霞んでいた。ひんやりとした霧が、辺りを厚く覆っている。
 …いや?
 ひんやりとしていると思ったのは、気のせいだったのだろうか?疑問を抱くと、空気は生温く身体にまとわりついていく。肌の感覚も麻痺していた。
「僕は…?」
 無意識に言葉が漏れた。
「ここは、おまえの来るべきところではない。すぐに帰れ」
 返答があったことに、心底びっくりする。さっきまで、人の気配なんて全くなかったのに。
 いつのまにか、目の前に男が立っていた。端正な顔立ちに、長い黒髪。和服を、粋に着こなしている。
 誰だ?
 男は、応えがないことに、少々苛立ったようだった。言い聞かすように、口調を強める。
「聞こえなかったのか?早く、帰れ」
「…帰るといっても…」
 応えてみたものの、先は続かなかった。
 ここがどこなのか分からない。
 どこに、どうやって帰ったらいいのか分からない。
 ましてや、自分がどうしてここにいるのかさえ、分からないのだ。
「…ああ、そうか…」
 男は、初めて気付いたように、軽く首を傾げた。どう説明すべきものか。顎に指をあてる姿に、そんなことを思っているのだろうと、見当がつく。
 …と、そのときだった。
「……っ!!」
 声が聞こえた。
 悲鳴に近い、声。
「僕を、呼んでる?」
 言葉は聞き取れなかったが、それにはなぜだか確信があった。
「ああ、おまえを呼んでいる」
「なぜ?」
「ここがおまえのいるべき場所じゃないからさ」
「でも、ここがどこかさえ、僕には分からないのに?」
「……!!」
 また、あの声だ。
 とても大切な、大事な、声。
「おまえは、帰れ」
 気のせいではない。男は怒っているようだった。…なぜだ?
「だから…」
 言いかけて、ふと思い出したことがあった。…血の記憶。自分の血の海で眠る夢。
 どうにか護りきった、大切な命。
「思いあがるのも、いい加減にすることだな」
「?」
「命をかけて護った、と胸を張る気か?」
 なぜ、この男に、心の中が見透かされているのだ。
「護った命に自らの命を押しつけて、自分は満足に浸る。護られた命が背負う、自らの命の代償なぞ、全く考えずにな」
「そんな…!僕は…!」
 そんなこと、思ってはいない!
 激情が心に溢れたとき、辺りの霧がさっと薄れたように見えた。
 そんな様子を見て、男はうっすらと微笑む。
「そうだ。まだ、諦めるのは早い」
 気のせいではない。辺りの霧が、徐々に晴れていく。雑草が埋める地面と、雲のない青空。そんな景色が、霧に包まれ、幻想のように浮かぶ。…まるで、現実ではないかのように。
「……!!」
 ああ。また、あの声だ。
 僕は、その声に応えなければ。
「行け、愛しい子」
 先刻までの厳しい表情は消え、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。男の姿は、霧が消えるのと同じように、徐々に薄れていった。
「…あなたは…!?」
 彼に、手を伸ばした。手は、虚しく空を掴む。
 男は、微かに首を傾げる。そして、再び微笑んだ。
「私の名は、……」
 …そして、視界は白く染まり、何もかもが消え失せた。

「…っ!…ら…っ!!」
 同じような白い世界があった。そこに飛びこんでくる、人影。
「如月っ!!」
「…雪乃…さん?」
 目を潤ませながら、心配そうな表情で如月を覗き込んでくる。思わず無意識のまま名前を呼んでいた。
 僕をずっと呼んでいたのは、雪乃さんだったのだ。
「…ここ……?」
「桜ヶ丘病院だ。おまえ、すごく危なかったんだぞ!?」
 夢うつつの状態から、すこしずつ目が覚めてくる。先刻の男は、夢だったのだ。夢にしては、妙な重みというかなんというか、現実味があったのだが…。
 確かに、病院のベッドの上らしい。鉛のように重い体が、シーツに埋まっている。
 右手が動かないのは、別の原因らしい。
 雪乃の両手が、如月の右手を包むように握っていた。
「もう、大丈夫だ」
 雪乃の傍らに立つ岩山が、その迫力のある顔を歪ませた。…多分、微笑んだのだろう。
「オレ、おまえが死んだらどうしようかと…」
 雪乃が、岩山の言葉で安心したのか、ぽろりと涙を零した。如月は、いつになくしおらしいなあ、などと、悠長に思う。
「寝ていられなくてね」
「は?」
「雪乃さんの声がうるさくて」
 一瞬ぽかんとした顔をする。そして、雪乃は怒りで顔を紅く染めた。
「…なっ!!」
 危なかったという話は本当らしい。体の動きは酷く緩慢で、雪乃が小突く拳にも反応できず、手で止められなかった。
「僕は死なないよ」
 如月は笑う。
 いつもの、人を食ったような笑み。
「護りきった命を残して、ね」
 雪乃は手を止めて、真剣な眼差しの如月を見つめていた。

 自分と言うものが、自分個人か、それとも自分の家族か、親類や周囲の友人を含めるか、それとも、地域か国か、それとも地球か。
 それは、その人間の大きさと等しいか。それは、自分の立場が変わっても変わらないか。
 自分以外のものを、自由にできる強大な力を持っていても、か。
 自分と言うものが、全てを含むのなら、地球上の全ての人々や生き物たちを含むのなら、争いは起こらないのだろう。
 そこに、自分がいて、自分以外が存在する。
 全ての争いの始まりはそこだ。
 自分が中途半端に大きな存在としよう。
 自分以外が存在するが、その存在を自分のものにしたり、排除したりできる力を持っているとする。自分のものにしたり、自分以外を排除したら、自分がもっと強大になれる。
 その状態で、本当に私は冷静に自分以外のものを排除することはいけないことだ、と思えるだろうか。
 私は、自分の力を振るわないだろうか。
 私には自信がないよ。
 …そう言って、鳴瀧はうなだれた。
 鳴瀧は、ずっと永井を説得しつづけていた。力を持つということだけで排除しようと考えるなど、間違っている、と。しかし、永井は、鳴瀧ではなく鈴木の声を選んだ。
 切れ者と謳われる永井も、弱かったのだ。
 鳴瀧の行動は制限された。
 そして、鈴木の暗躍。
 気付くべきだったのだ。永井の後見する鬼道衆が、危険因子でないはずがなかった。
 起こるはずのない闘いだった。
 あの、柳生の闘いが終わった後、繊細な均衡とはいえ、力の均衡は守られ、自らの力も忘れようとしていたのに。
 鳴瀧は、無言のまま背を向けた。去っていく鳴瀧に、壬生も飛羅も、かける言葉を知らなかった。

 オレは愛されてる。だから、強くいられるんだ。オレが一人超人的に強いわけじゃない。おまえらの存在がオレを強くさせてるんだ。
 ありがとう。
「…なーんて、口が裂けても言えないけどな!」
「?なんだい?」
 突然黙りこみ、そして突然のその言葉。わけが分からなくて当然である。
 いぶかしむように眉根を寄せた壬生の前には、へらへら笑っている飛羅がいた。
「いや、こっちの話」
「その笑いが、気持ち悪いんだけどね」
「なんだよ!紅葉の微笑みは、世界が崩壊するぜ!?」
「…どういう意味だい?」
 気のせいか、その額には青筋が立っているようだが。
「それにしても、こうやって墓参りに来れて良かった」
 その表情は、あっさりとおだやかなものに変わる。
 共同墓地の、小さな墓だった。きれいに整えられた墓には、優しい色調の花が供えられ、線香の煙が漂っている。濡れた墓標には、最近の日付が刻まれ、女性の名前があった。
「ごめんな。謝っても謝り切れないけど」
 壬生は、墓に向かって話す親友の真面目な横顔を、静かに見つめる。
「オレさ、もう闘いは起こさないよう、頑張るから、さ」
 飛羅は、ひとつ息をついた。そして、何かすっきりしたように、傍らで冥福を祈っていた壬生を振りかえる。
「じゃ、行こうか」
「ああ」
 飛羅は、ひとつ気付いたように、虚空を見上げた。
「あ、そうだ。これから紅葉の家に行かせろよ。まだ余ってるんだろ?栗蒸し羊羹。雛乃の話じゃ、おいしいってことだからなあ」
「ああ、いいけど?」
「じゃー、紗夜呼んで〜…」
「は?なんでそこで比良坂さんが…」
「だって、男に淹れてもらった茶より、紗夜に淹れてもらった方がいいじゃんか」
「ああ…、そう…」
 呆れたように、壬生は頭を抱える。
 飛羅は、いたずらっぽく笑った。
「あ、それとも、オレってお邪魔?」
「だから、なんでそうなるんだ!」
 秋を感じさせる風が、さらさらと髪を揺らす。穏やかな陽気の中、飛羅と壬生の家路につく足は、思いの外軽かった。

 数年後、人々は鈴木孝義の名前を忘れようとしていた。いつのまにか、鈴木の存在は、政界から、社会から、姿を消していたのである。
 永井の活躍も、音に聞こえなくなった。
 それが、何者かの手によるものか、自然の風化なのか、語る者はいなかった。


END


やっと終わりました。
ここまで、読んでくれた方いるでしょうか…。
ホントおつかれさまでした。

ホント、読んでいただいた方、
ありがとうございました。(ぺこり)

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