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  5 英傑
 眼下には、皇居の森が緑色に染まっていた。
 ―――そこに本来はあるはずのない生命。それをそこに縛り付けているのは、神の仕業ではないことを、ゴウは知っている。
 エレベーターのランプが最上階の二十五階に灯り、ポーンという電子音が鳴った。左右にドアが開き、ゴウとレッドはいつものようにすたすたと足を踏み入れる。
 エレベーターを降りたそのフロアは、すでにどこかの事務所らしく、随分と機能的に見えるオフィスデスクが2つ並んでいた。広い部屋にはそれしかない。
「ハロー、律子さん」
「こんにちは、ゴウ、レッド。忍さんがお待ちですよ」
 部屋の奥に位置するデスクで、パソコンのキーボードを打っていた女性は、レッドの挨拶で手を休め、立ちあがって出迎えた。
 律子は、さほど若くはないが、背筋をピンと伸ばし、見る者に好印象を与える。薄い化粧が、彼女の美しさを引き立てていた。
 彼女は、忍の秘書である。彼女の情報収集能力はかなりのもので、情報収集の仕事を一手に引き受けていた。
 言うまでもなく、情報収集能力は、単に情報を集めるだけでは計れない。事象に対しての冷静な分析力、そこから生まれる疑問に答える情報の抽出、グローバルな視点からの虚偽の選別、この全てが揃っていないと、情報収集能力が高いとは言えない。
 その難しい条件を、律子はことごとくクリアしているのだ。そこからも、律子が世界でもなかなかいない実力者と知れる。
 が、律子に言わせると、忍には全く敵わないそうだ。律子が無能であるはずもなく、忍が抜きん出ているだけである。
 ゴウに言わせてみれば、忍は人間ではない、という結論になるのだが。
「忍さん、ゴウとレッドが到着しました。…入ります」
「どうぞ」
 エレベーターの正面にある重厚な造りの扉の奥から、良く通る男の声が聞こえた。
 律子の手で、扉が開けられる。
 その部屋は、正面がガラス張りで、新宿のビル街をはじめ東京の街並みを一望できた。窓ガラスは綺麗に磨かれ、そこに存在していないかのように見えるが、景色は薄く青みがかっていた。それは、ガラスに厚みがあることを示している。防衛にぬかりはない、ということだ。
 その窓の前には、大きな机が、茶色の絨毯にどっかりと据えられていた。木製の、ビジネスデスクとは似ても似つかない、四角い箱のような机。
 その机に向かい、座っている者がある。
 チャコールグレーのスーツを着こみ、皺一つない白い襟からは、品の良い細かな模様のネクタイが延びている。少しばらつかせたオールバックの漆黒の髪。年齢が計れない整った顔立ちに微かな笑みを浮かべ、吸いこまれそうな黒い瞳でゴウ達を見つめている。
「よく来てくれた」
 落ち着き、ゆっくりと話す声。その響きには、自然に魅せられる。
 この男が、忍未来生である。
「早速だが、君達に頼みたい仕事が発生したのだよ」
 机に肘をつき指を組み合わせると、忍は皮張りの椅子に座り直し、ゴウ達を真っ直ぐ見上げた。
「ある政治家が、礼門とコンタクトを取ったようだ。異常な行動は今のところ見られないが、それ以来、その政治家の家には誰一人は入れないそうだ」
「入れない?」
「そうだ。入れないと言っても、鍵がかかっているわけではない。その政治家は滅多に人を招き入れないが、そういう意味ではなく、人はその家に入ろうとすると、入ろうとする意志をなくしてしまう、と言う表現が妥当だろう」
「なんや、それ。調査せんとと入ろう思うても、入ろう思った瞬間に、入らへんでええわ、って思うってことか?」
「そう思って構わない」
 ふむ。レッドはあごに手をあてると、考え込むように口を閉ざした。その後ろで、ゴウは無言のまま立っている。
 レッドは顔を上げた。
「ところで誰なんや?その政治家ってのは?」
「田中秀征だ」
「田中秀征?」
 ゴウは、思わず会話を遮った。先刻、霊樹から聞いたばかりの名前だ。
「何か知っているのか?ゴウ」
「…いや…」
 ゴウは応えようとはしなかった。偶然ではないと思う。が、どんな理由で必然になるのか、まだ見当もつかない。確信が持てるまで、あやふやなことを口に出す気はなかった。
 忍はそれを見て取ったのか、何もなかったかのように話を進めた。
「礼門が何を考えているのか、分かったものではない。まあ、彼に人としての良心があったとしても、良いことは考えていないだろうがね」
 苦笑を浮かべながら冗談を吐くと、その瞳はすっと色を落とした。真剣な眼差しが、ゴウとレッドを射る。
 これが、忍の得体の知れなさと実感する。人を惹きつけるやわらかな微笑を浮かべたかと思うと、突然うってかわって、冷たく張り詰めた空気の中にいるような感覚を味わう羽目になる。不思議なのは、その冷たく清廉な空気にも魅せられることだ。
「しかし、そのために多くの犠牲者を出すのは、私の思うところではないのでね」
 忍がその言葉を発した後、緊張が解けたように空気が緩む。
「田中の住む墨田区では、行方不明者が続出しているわ。関係があるかもしれないから、資料を渡しておくわね」
 律子は、ゴウとレッドに、それぞれ数枚の書類を持たせた。そこには、田中のプロフィールの他、行方不明者の顔写真などが並んでいた。
「それと、今回は相手の強硬な行動も考えて、君達を物理的にボディガードする柴崎昇を、一階に待たせてあるから」
「え?なんでここにおらへんのですか?」
 レッドの問いに、忍は困ったような笑みを返す。
「いや、ちょっと機嫌を損ねてしまったようなのでね」
「…どうでもいいが…」
 つまらなそうに目を走らせていた資料を指で弾くと、ゴウは冷たい瞳で忍を真っ直ぐに見た。
「俺は、慈善事業なんてする気ありませんよ、忍さん」
 忍は、ゴウをやんわりと見返すと、机の上に置いてあった書類を手に取り、それに目を落とした。
「私は、一人の人間の愉しみのために、多くの人々を殺させる程、優しくはないんだよ」
 一人の人間というのは、勿論、礼門一樹のことである。
「人の未来は人が決めてくれる。まず、我々が命を繋ぎ止め、後は全て委ねればいいことだ」
 忍が人の未来を決めてしまえばいいんではないだろうか。目の前のこの人間なら不可能ではないはずだ。
「一人の英雄が決めた世界など、脆いものだ。その英雄と命を共にする」
 忍は瞳を伏せたままだ。その瞳に動きはなかったはずなのに、ゴウの微妙な表情を読んだということだろうか?ゴウの思ったことは、言葉にしたかのように、忍に筒抜けになっている。
 その事実に畏怖を覚え、ゴウはぞっとした。
 忍は再び目を上げ、かたまったゴウを見据えた。そして、口元に涼しげな笑みを浮かべる。
「君には守りたい人々がいるんじゃないのか?それなら、全ての人を守ろうとするべきだ。そうでなければ、その人々の世界を守ったことにならないからね」
 ゴウは、あからさまにムッとした顔をした。


to be continued


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