古代ローマ

「グラディエーター」の時代を中心に当時のローマについて調べてみました。古代ローマを舞台にした他の映画も紹介します。
注:映画の中の人物描写と実在の人物とは多少異なります

五賢帝

マルクス・アウレリウス帝 歴史上に名を残す五賢帝とはネルウァ(在位96〜98)、トラヤヌス(在位98〜117)、ハドリアヌス(在位117〜138)、アントニヌス・ピウス(在位138〜161)、そしてマルクス・アウレリウス(在位161〜180)の5人です。 彼らの統治時代にローマの領土は最大限に達しました。
マルクス・アウレリウスは16才の時に7才のルキウス・ウェルス(在位161〜169)と共にアントニヌス・ピウスの養子となっています。彼の死後、マルクス・アウレリウスはルキウス・ウェルスと共にローマを治めていきます。 しかし、年上で経験豊富なマルクス・アウレリウスの方が実権を握っていたのは間違いないと思われます。
マルクス・アウレリウスの統治時代は内外の戦闘が絶えなかったようです。19年に及ぶ統治の内、首都で生活したのは9年程度だそうです。180年3月戦地にて病死しています。

マルクス・アウレリウス(右写真)は子宝に恵まれましたが、この時代の乳児死亡率は高く、彼が崩御したときに生存していた男子はコモドゥス一人でした。 この時コモドゥスは18才。父帝が手に入れた占領地を放って首都に帰ってしまいました。

コモドゥス帝

コモドゥス帝 コモドゥスが皇帝に即位したとき、民衆からは熱狂的な歓迎を受けました。何しろ実子による即位は1世紀ぶりだったからです(父帝マルクス・アウレリウスをはじめ五賢帝のほとんどが養子でした)。 おまけにコモドゥスは金髪で巻き毛のハンサムだったそうです。
しかし民衆の期待はすぐに裏切られます。コモドゥスは政治にまったく興味を示さず側近に任せっぱなし。変わって実権を握ったのは侍従。人々が怒るのも無理ありません。
では、何をしていたのか?コモドゥスは300人もの妾を囲い、酒を飲み、己の快楽に浸っていました。
182年には実の姉ルシラにまで命を狙われました。幸いこの暗殺計画は失敗に終わりましたが、コモドゥスの受けたショックは大きかったようです。
しかし、それでも彼の放蕩は続きます。自分をヘラクレス(破壊と創造の神)と認めさせたり、近衛隊長や侍従を簡単に殺してしまったりとあまりの愚行に側近達も手におえなくなってしまいました。 そして192年ついに暗殺されてしまいました。

右の写真はヘラクレスと称して、ライオンの毛皮をまとい、棍棒を持った姿を彫像にしたものです。

剣闘士競技

コモドゥス帝の最大の関心事はローマで大人気の娯楽、剣闘士競技でした。カリグラ帝(在位37〜41)も剣闘士として闘った事があったようですが、コモドゥスの比ではなかったようです。 コモドゥスほど剣闘士競技に熱中した上層民はいなかったそうです。皇帝自ら何回も競技に出場したそうです。父親はアウレリウスではなく剣闘士だったのでは、という噂まで流れたとか。

剣闘士競技がローマに初めて登場したのは紀元前264年のことです。最初は貴族の葬儀の一部として行われました。 しかしこれが徐々に政治に利用されるようになり宗教的な意義のほとんどを失ってしまいました。 そして、やがて皇帝が競技の開催を独占するようになっていきました。

「死に赴く我らは閣下を賛美するものであります」。皇帝に向かって剣闘士たちがこう叫ぶと、競技が開始されます。 剣闘士競技は単独で行われることはなく、他の見世物と一緒に行われました。 競技においてどちらかが死亡すれば勝敗は決まりですが、負傷して闘えなくなった剣闘士でも 観衆がその戦いぶりに満足すれば命を救われることがありました。最終的には主催者が(皇帝が臨席している場合は皇帝が)判断します。 親指が上を向けばその剣闘士は助かりますが、親指が下に向けられた場合、それは死を意味します。

剣闘士のほとんどが奴隷または罪人で、専門の施設で特別に訓練されていたそうです。また、なかには女性の剣闘士もいたようです。競技で勝利を収めれば、自由の身になることもできたそうです。 剣闘士はローマ女性の人気を集めていたようで、剣闘士を希望する若者もいたようです。

コロシアム

剣闘士競技が行われるコロシアムはウェスパシアンウス帝(在位69〜79)がネロ帝(在位54〜68)の黄金宮殿を取り壊して建設されました。 完成したのはウェスパシアンウス帝が亡くなった翌年の80年です。”コロシアム”と呼ばれるようになったのは、ネロ帝の巨像(コロッスス)の近くに建てられたからだと思われています。
大きさは188メートル×156メートルの楕円形でアリーナ(闘技場)は86メートル×54メートルの広さがありました。 周囲の防壁は四層で57メートルの高さがありました。 屋上には観衆を日光や雨から保護するための巨大な天幕が張られ、奴隷達により何百本ものロープで操作されていました。
収容観客数は約5万人で80の入口があり、その内76は観衆のため入口で番号がついていたそうです。 残りの4つの内2つが皇帝とその側近達の入口で、残りの2つが剣闘士達のためのものでした。 1つは生き残った剣闘士達の門であり、1つは負けた剣闘士達の死体が運び出される門でした。

皇帝の席はアリーナの短径の端(A)にありました。その向かい(B)がローマ長官たちのボックスで、Cは剣闘士やその他の演技者たちの入り口でした。

アリーナの下には通路や檻のような小部屋がありました。地下から剣闘士や動物が登場するときにはリフトや跳ね上げぶたが使われたそうです。
アリーナという名の由来は、競技で血に汚れた闘技場に新しい砂(アリーナ)をまいて次の競技に備えたことからこの名が付いたようです。

現在のコロシアム − 外観とアリーナ部

ローマの軍隊

ローマ帝国を支えていたのはレギオンと呼ばれる軍団を単位とする軍隊でした。各レギオンは約5000人の歩兵から成り、すべてローマ市民で構成されていました。兵士たちは自ら志願して20から25年間軍役に就くのがふつうだったようです。レギオンの兵士たちは厳しい訓練によって鍛えられ、優れた装備を誇っていました。2世紀に入ると、レギオンの兵士たちは15万人に達し、それを上回る数の市民権のない予備兵がいてレギオンの兵士たちを支援していました。

1世紀に入るころには、ローマは帝国の領土を広げるだけ広げてしまったため、兵士たちは戦闘だけではなく国境地帯の監視や国内における反乱の鎮圧もその任務になってきました。

軍隊は戦闘以外にも重要な役割を担っていました。軍隊に入ればそこそこの生活ができ、土木・建築などのさまざまな技術を身につけることができました(現在でもローマ軍が建築した橋などが残っているようです)。そのため比較的貧しい人々は兵士になることを選びました。 その代わりに戦闘では死の危険にさらされ、結婚も諦めなければならなかったようです。しかし、多くの兵士は正式でないにしろ結婚し、妻子を持つことができました。属州出身の兵士も一定期間の兵役を終えると、本人と家族にローマの市民権が与えられました。また、有能な兵士には"百人隊長"を任せられたりもしたようです。

SPQR

SPQR 「ローマの元老院と市民」(Senatus Populusque Romanus)の頭文字をとったSPQRの4文字は貨幣や碑文などに使われていました。


古代ローマを舞台にした映画
「ベンハー」

「スパルタカス」

「ローマ帝国の滅亡」

参考資料

「ローマ帝国愚帝列伝」新保良明著 講談社
「ローマ皇帝歴代誌」クリス・スカー著 創元社
'ANCIENT ROME' Kingfisher Publications Plc

 


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