第1章「幼年時代」(誕生〜小学校1年)


☆「生い立ち」

……………………………………………。いきなり行き詰まってしまった。(ちょっと待てぃ!笑)

生い立ちを語るということは、歳がバレるということだ。そーとーいい歳なので、さすがに恥ずかしいかもしれない。高橋先生と3歳しか違わない。漫画・アニメファンの中心層からすれば、飛鳥杏華はいい歳こいたおっさんだ。じじいと言えるかもしれない。

しかし、私を「じじい」と呼ぶならば、3歳年上の高橋先生は「<ピーッ>(音声が途切れる音)」と呼ばれなければならない。るーみっくファンなら、そんなことはしないはずだと思う(思いたい)から、したがって私も「じじい」ではなく、全面勝訴の日は近い。(笑)

のっけから、わけのわからないことを書いてしまったが、要するにそれだけ照れくさいということなのだ。しかし、高橋先生と3歳違いということは…、結婚の障害にはならんよな…、じゃなくてぇ、私が受けてきた影響は、高橋先生も受けてきた可能性があるということだ。

飛鳥の過去を知ることで、もしかしたら現在の高橋先生を作り上げてきた時代背景的要素の一端を垣間みることができるかもしれない。これは有益かもしれない。すごいことだ。…と、一応、質が高いように見せかけておこう。(おいおい。汗)

さて、そろそろ本題、本題…。

飛鳥杏華は、1960年9月26日、東京都北区に生まれる。もちろん、「おぎゃあ!」と生まれ落ちたのは病院の分娩室に違いないのだが、当時、飛鳥の両親が住んでいたのは、西ヶ原4丁目というところである。現在では、唯一残っている都電(荒川線)の停留所があり、近所には東京外語大学がある。いたって閑静な住宅街だ…。その一角、坂の途中にあるアパートが飛鳥の住まいだった。(おい、こらっ!笑)

いや、しかし、これはウソではない。ほんの偶然だろうが、一刻館のように共同の玄関があって、その中が各室に分かれているという造りのアパートだった。ただ、一刻館とは違ってモルタル造りの平屋建てで、3部屋しかない。しかも、一刻館のように盛り土をして平らにならした土地に建っているわけではないので、坂の下側の部屋は、入口は1階だが、窓の下は2階並みの高さになっていた。

飛鳥は、ここに2歳半までしかいなかったのだが、不思議とこのアパートを憶えている。共同の玄関を入ると、「廊下」と言うには狭い板張りの床があり、3方向にドアがある。その中の左側(坂の下側)のドアが自分の家であり、隣りには同じくらいの歳の女の子が住んでいた。名前も憶えていないし、幼なじみ未満のレベルでしかないのだが、いたという事実、そしてそれが女の子だったという事実だけは漠然と憶えているのだ。

この時期、その女の子以外の遊び友達がいたわけでもないし、特に何かに影響を受けたということはなかったと思う。ただ、2歳3ヶ月のときから始まった「鉄腕アトム」を筆頭とするテレビまんが(当時はまだ、アニメという呼び方はしていなかった。)が、徐々に影響を与え始めていたのは事実であろう。

2歳半のときに同じ北区内の田端町(現在の東田端)に引っ越した。父親の勤め先の宿舎で、敷地内には木造2階建て(8戸)が2棟と平屋建て(2戸)が1棟あり、近所に子供も多く、飛鳥を取り巻く環境は一変した。ここへ移ってから、飛鳥に明確な興味の対象ができてくることになる。


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☆興味の萌芽(その1)−電車と線路

まず、好きになったのは電車だった。宿舎のすぐ近くを山手線が走っており、よく電車を見に連れて行ってもらった影響からなのだろう。特に、田端と駒込の中間付近の踏み切りの脇に木造りの小屋(といっても、せいぜい屋根つきのベンチ程度のもの)があって、そこがお気に入りの場所だった。

ある日、夕方になっても帰らず、親が心配して探し回ったら、同じ宿舎にいた幼なじみの女の子と一緒に、この踏み切り小屋で遊んでいたということがあったらしい。(この小屋は大学生の頃くらいまでは残っていたのだが、現在ではもう撤去されてしまった。)

買ってもらうオモチャも電車が多かった。しかし、この電車への興味は妙な方向に向かってしまう。飛鳥の興味は車両よりも線路に移って行ったのだ。

この当時、出かけると、決まって電車の窓から見るのは、景色でもなければ他の車両でもなく線路だった…。ただ、延々と線路ばかり見ていたのだ。家では線路の絵(路線図のようなもの)ばかり描いていた。実に変な子供だったと思う。しかし、それにはちゃんと理由があった。(無かったら、ほんとに変だ。笑)

線路はときに分岐し、またときに合流し、電車を様々な場所へと運ぶ。そのために計算され、配置された切り替えポイント…、終点や折り返し施設のある駅とない駅の位置関係などに、飛鳥は子供ながらに1つの創造性、ドラマ性のようなものを見出していたのだ。

最初のうちは、出かけたときに見た線路の分岐、合流のかたちを憶えていて描き写すだけだったが、そのうちに自分で考えて想像上の鉄道路線図を描くようになって行く。駅の配置なども考えながら、描いた路線図の上に想像上電車を走らせていたのだ。この場合、車両の方は何でもよかった。とにかく、線路の分岐、合流が織りなすドラマがおもしろかったのだ。そして、それを自分の思いのままに作るのが…。

これは、いま考えてみると飛鳥杏華にとって初めての創作活動であったと言えるのかもしれない。この遊びは小学校に2〜3年のときまで続けていたが、やがて別のものに興味が移って終息へと向かっていった。


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☆興味の萌芽(その2)−昆虫採集

飛鳥にとって、夏の最大の楽しみは昆虫採集だった。宿舎の子供の中では年少の方だったので、多分、近所のおにーちゃんたちに触発されて始めたのだろう。まだ、ちびガキのくせにいっちょまえに網と虫かごを持って、毎日のように出かけていた。

市販の虫網は、すぐに木の枝などに引っかかって穴があいてしまうので、飛鳥は父にガーゼで特製の網を作ってもらって、これを使っていた。ちびのくせに、結構網さばきはうまかったようだ。

幼稚園児(5歳)の頃、当時でも都内では珍しかったオニヤンマを捕まえたときは、子供ながらに非常に誇らしく思った。近所のおにーちゃんたちが寄ってきて、盛んにくれくれとせがんだが、飛鳥はガンとして譲らなかった。

しかし、ここ一番という大事な局面に弱いという部分もあった。やはり幼稚園児の頃、母方の田舎(長野県上田市)からほど近い秋和温泉に行ったときのことである。地熱のせいなのか、風呂場の裏手の地面にミヤマカラスアゲハが5〜6匹群れていたのを発見したのだ。

これだけ集まっていれば、普段の実力からすれば最低でも1匹、少なく見積もっても2匹は捕まえられるだろうと思った。しかし、結果は…。「く〜っ、うさぎ1匹とれなかっただぁあああっ!」(もっとも、虫網でうさぎがとれたら大したものだが…。笑)

要するに、まったくダメ…。興奮して舞い上がってしまった上に、あせりも加わって自滅してしまったのだ。この、ここ一番の勝負に弱いという性質は、恐らく今も飛鳥の中に残っている。(汗)

この趣味は、小学校4年生のときまで続き、夏休みの自由課題は決まって昆虫標本だった。ところがあることを境に、飛鳥は昆虫採集をパッタリとやめてしまう。その理由については、また別のところで語るとしよう。


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☆興味の萌芽(その3)−漫画とアニメ

「生い立ち」のラストでもチラリと書いたが、「鉄腕アトム」をはじめとするテレビまんがが、強烈というほどではないが、飛鳥に影響を与えていたのは事実だった。

3歳半のとき、飛鳥は突然「絵が描きたい」と両親に言う。それまで、絵など描いたことがなかったものだから、両親は喜んで大きな模造紙とマジックを用意して、思う存分描かせてくれた。

そのとき描いたのが「鉄腕アトム」の絵だった。もちろん、3歳児の絵であるから、「どこがアトムじゃあっ!?」と言いたくなるほど原型をとどめていない。当時の写真を見ると、アトムというよりはむしろ錯乱坊に似ており、この頃からるーみっくファンしてたんだなぁと思わず感慨に浸ってしまう。(おいおい。笑)

3歳〜5歳にかけては、まだ漫画雑誌を読むということはできないので、やはりテレビまんがの影響が大きかった。特撮モノも「ウルトラQ」、「ウルトラマン」と結構ハマった。買ってもらうオモチャの傾向も、その関連のものへと当然変化して行った。

6歳になって、ある程度字が読めるようになると、漫画雑誌に手が伸びはじめる。6歳でというのは、結構早いかもしれない。当時、田端の宿舎の近所の書店で、少年誌の古本を1冊10円で売っていたのも大きな要因となった。

この当時、少年マガジン、少年サンデー、少年キングなどは1冊60円くらいだった。テレビまんがでは、「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「悟空の大冒険」などの手塚作品が中心だったが、漫画の方でお気に入りだったのは、藤子不二雄氏と赤塚不二氏夫の作品だった。

前者では「オバケのQ太郎」「パーマン!」、後者では「おそ松くん」「天才バカボン」にハマっていた。また、ちばてつや氏の「ハリスの旋風」も好きだった。「怪物くん」も当時、少年キング誌上に連載されていたが、なぜかこちらはちょっと好みとは違うという感覚を持っていた。当時から、藤子・F・不二雄氏と藤子不二雄A氏の違いを感じとっていたのかもしれない。(…と、日記には書いておこう。笑)

絵としては、「おそ松くん」の六つ子の絵をよく描いた。ほかのものは、あまりうまく描けた記憶がない。チビ太の持ってる「おでん」は得意だったが…。(んなの、誰でも描けるって。笑)

この漫画雑誌とのつきあいは、小学校1年修了後の再度の引っ越しで10円古本が手に入らなくなったことによって終わり、その後しばらく途絶えることになる。


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☆興味の萌芽(その4)−音楽と楽器

幼稚園に通うようになれば歌もおぼえる。しかし、飛鳥がまずハマったのは、若大将・加山雄三だった。寺内タケシらをバックに奏でるベンチャーズ系のエレキサウンドは、ませた幼稚園児を魅了した。

この年、折しもビートルズが来日。幼稚園児・飛鳥は、ビートルズの公演もテレビで見ていたらしい…。(憶えてないのが、なんとも悔しいのだが…。)

小学校に上がる頃になると、世は空前のGSブームとなる。言っておくがGSといってもガソリンスタンドやゴーストスイーパーのことではない。(笑)当時GSと言えば、グループサウンズ(要するにバンド)の略である。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズに主にハマった。

最近の若い人たちでは、グループ名を聞いてもよくわからないかもしれない。が、ブルーコメッツのリードヴォーカルは井上大輔だし、ザ・タイガースのリードヴォーカルは沢田研二、ザ・テンプターズのリードヴォーカルはショーケンこと萩原健一だった。

ザ・スパイダースに至っては、堺正章、井上順の2人のメインヴォーカルを筆頭に、ギターにかまやつひろし、井上尭之(正しい字が出ないので、これで我慢してくれ。汗)、キーボードに大野克夫というそうそうたるメンバーであった。

バンドだから歌にハマれば、当然、楽器にもハマる。飛鳥がまず興味を持ったのはドラムスだった。といっても、ドラムセットなんか買ってもらえるわけはない。だいたいアパート同様の宿舎でドラムなど叩けるはずがないのだ。

そこで飛鳥は、革やビニール張りの椅子を並べてドラムの代わりにし、これを料理用の菜箸で叩いた。叩いたときの音の高低を聞き分けて椅子を配置し、レコードに合わせて、ちゃんと同じフレーズを意識して叩いては自己満足に浸っていたのだ。(もちろん、バスドラやハイハットのペダルは実現できないから、手だけだったが…。笑)

この頃、飛鳥が音楽に目覚めたことを知った叔母が、ギターをプレゼントしてくれた。だが、そのときにはギター(ましてアコスティック)には興味がなく、しばらくは部屋の隅の飾りになってしまう。しかし、捨てずにとっておいた甲斐があって、そのギターは中学生になってから活躍することになる。

この音楽への強い興味も、GSブームの終わりとともに、一旦は、消滅することになる。


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☆興味の萌芽(その5)−青春ドラマと児童文学

なんとませたガキだったのだろう!?幼稚園児の頃から飛鳥は青春ドラマを面白がって見ていた。日本テレビ系の元祖青春ドラマ三部作「青春とはなんだ」「これが青春だ」「でっかい青春」はすべて見た。

後に、「クサイ」などと言われて笑いの種にされるあの典型的青春ドラマの元祖的存在で、その後の「飛び出せ青春」「われら青春」などに至る一連の青春ドラマは、高橋先生にも影響を与えているはずだ。

これらの青春ドラマ…、パターンは見事なまでに一緒である。まず、若い男の新任教師がやってくるところから始まる。この新任教師は決まって英語の先生で、ワルや落ちこぼれのたまってるクラスの担任になる。また、このワル連中のたまってるクラブがあり、そのクラブの顧問になったりするが、そのクラブは必ずラグビー部かサッカー部のどちらかだ。(笑)

そして、その学校には必ず美人の女教師がいて、この新任教師との確執や恋愛の路線が作られる。さらに、悪役は決まって教頭先生だ。(笑)

もちろん、再放送で何度か見たのだが、ビデオを持っているわけでもないのに、これだけ思い出せるということは、これらが飛鳥の中にしっかり根づいている証拠であろう。

一方、児童文学とのまともな出会いは小学校1年生のときだった。それまでもお伽噺や童話を親から話してもらったり、読んでもらったりということはあったが、自分で物語を読むという行動をしたのは、このときが初めてだったように思う。

きっかけは、7歳の誕生日に友達から本をプレゼントされたことだった。このときの作品はオスカー・ワイルドの「しあわせの王子」。強く感動したとかいうことではなかったが、物語を読むことの楽しさ、面白さをこれで知ることができた。

そんなに興味を持ったのならということで、親が今度は「アンデルセン絵童話」という本を買ってくれた。飛鳥はこの本で生涯忘れえぬ衝撃と出会うことになったのだ。

アンデルセンといえば、「みにくいアヒルの子」「おやゆび姫」「人魚姫」などが有名だが、飛鳥に衝撃を与えたのは、アンデルセンの作品としては比較的知られていない「ひなぎく」という作品だった。

あるお屋敷の庭に目立たずひっそりと咲いていたひなぎく…。花壇の大きくて美しい花たちは、その美しさゆえに人間に摘み取られてしまうこともあるけれど、ひなぎくにはそんな危険もなく、空で美しい声で歌うひばりさん(美空ひばりではない。笑)にあこがれて毎日を過ごしていた。

ところが、このひばりさんがお屋敷の子供達に捕らえられ、カゴの鳥となってしまう。嘆きの歌を歌うひばりさんを慰めたくて、なんとかそばに行きたいと願うひなぎく…。その念願がかなって子供達の目にとまり、同じカゴの中に入れてもらえた。

だが、子供達が水をやるのを忘れ、とうとうひばりさんは死んでしまう。子供達はひばりの死を悲しみ、ひばりさんにはお墓を作ってあげたけど、ひなぎくはゴミ捨て場に捨てられてしおれて行く…。

これを読んだ飛鳥は、物語りを読んで泣くという生まれて初めての体験をする。こんな悲しい話があるものかと子供ながらに思った。もともと涙腺が弱く、ちょっと転んでもピーピー泣く泣き虫の飛鳥であったが、物語で泣かされてしまうというのは思いもよらない出来事であった。この作品は、実に30年を経た今日でも、このように克明に思い出せるほど深く飛鳥の心に根づいているのだ。

さて、こうして芽生えた興味の対象は、小学校2年のときに別の宿舎に引っ越したことによって、また大きく変わってくることになる。野球との出会い、昆虫採集との決別、そしてついに漫画との再会へと流れて行くことになるのだ。


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