メトロポリスとメトロポリスとメトロポリス

 間違っても大絶賛、とはいってない感じの大友・りんコンビの"メトロポリス"。ま、最高の出来ではない。感動もしない(あざとい演出にまんまとはまって泣いちゃうところはあるけどな)。んでも、めちゃくちゃ酷い映画でもない、と思う。でも、めちゃくちゃ酷い、と怒る方もおられる。何が違うんだろうと考えてみた。何となく答えはわかるような気がする。つまり、期待している"メトロポリス"が別物なのだ。

 これは手塚治虫のマンガ、"メトロポリス"を原作に、大友克洋が脚本を書き、りんたろうが演出した長編アニメーション映画だ。この映画を見る人が、この三人の誰に重点を置くかで、この映画の見方と感想はずいぶん違ってくるのではないか。手塚治虫にウエートを置いてこの映画を観た方は、きっと怒ると思う。大友克洋に重点をおいた人にとっては「ああ、なるほどね」という映画だと思う。りんたろうに重点を置けば、この映画は「あ、いつもの」ということになると思う。オレは大友に重点を置いてみたのだと思う。というか、映画がはじまる前には誰にも重点を置いてなかったけど、映画がはじまった瞬間、これは大友克洋の映画だと思った。

 りんたろう氏は、原作のある映画を撮る時には、絵づくりに集中するあまり、しばしばお話をまとめることをほったらかしにする傾向があるように思う(『カムイの剣』を見られよ)。しかし、映画の作り方そのものは極めてオーソドックスで、そのカットの構成などもあまり凝った事はやってこない人だと思う。今回の"メトロポリス"はそうじゃない。冒頭から、無声映画風味のちょっと荒れたモノクロ映像で演説するレッド公の姿が映し出され、それはやがて極彩色の、精緻をきわめる大都市での祝宴のシーンにオーバーラップする。バックに流れるのは古いジャズ。こういうことをりんたろう氏はしないと思うのだ。つまるところこの映画、大友克洋による"メトロポリス"なんではないかと思うんである。

 手塚治虫の初期の名作といわれる、"ロスト・ワールド"、"メトロポリス"、"来るべき世界"の三つは、すべてそのタイトルがそれぞれ、既に存在している作品から取られていることに注意すること。当時の日本において、これら三つのタイトルは決してメジャーなネームバリュウを持ってはいなかった。初めてこのタイトルに接した読者は、それらはすべて手塚が考え出した言葉であったと思ったはずだ。でも本当はそうじゃない。手塚治虫もまた、何かにインスパイアされてすぐれたSFマンガを描いたんである。同じことを大友克洋がやって悪いわけがない。で、大友はそれに挑戦したんじゃないかな。

 手塚の"ロスト・ワールド"、"メトロポリス"、"来るべき世界"にしたって、原作とは似ても似つかないものになっている。でもそのそれぞれのお話は、"ロスト・ワールド"、"メトロポリス"、"来るべき世界"というタイトル以外に適当なものは考えにくい。大友はそういう話を創りたかったのではないんだろうか。で、そこで彼が取ったのは、手塚の"メトロポリス"の皮を被った、フリッツ・ラングの"メトロポリス"ではなかったのかな、と(今は)思う。大友克洋は、手塚の"メトロポリス"というテーマを借りて、実はラングの"メトロポリス"を、アニメとして再現したかったのではないか。で、それはかなりうまく行きかけていたのだ。

 世界観は作った、お話のベースには手塚の素敵な話がある。今の技術をもってすれば、ラングの"メトロポリス"に匹敵するビジュアル・イメージは創れる。大友とりんの勝算はこの辺にあったのだと思う。でもうまくいかなかった。何故でしょう。

 誰もそんな話を今見たいと思わなかったからですね(^^;)。"メトロポリス"っつーのはつまるところ、"衆"がその置かれた立場をどう克服して行くか、というお話だ。でも今、誰も"衆"のステータスなんて深く考えたりはしない。"衆"をうやむやにした"個"の時代が今なんだ。だから大友の"メトロポリス"でも、衆のムーブメントは描かれはするけどあっという間にたたきつぶされる。でも、「大都会」をテーマにするかぎり、"衆"のお話は避けて通れない。ここらのジレンマを、観客は映画を見る前から嗅ぎつけていたのではないか。

 ここで、手塚治虫作品"メトロポリス"のアニメ映画化を期待して見に行った人が、あまりのことに(^^;)愕然としてしまう気持ちは何となく理解できるのだな。でも、最初からこれが手塚の"メトロポリス"などに成りえないと思って見るなら、この展開、それほど意外でもないんではないだろうか。個人的にオレは手塚治虫を尊敬しているけれど、手塚作品の全てを愛している訳じゃない。オレとしてはむしろ、近しく感じるのは手塚のマンガによって漫画家を志した人々(トキワ荘の世代、と言い換えてもらってもいいです)なのだ。だから手塚作品がずたずたにされても、それほど悲しくない。でも手塚作品を愛する人にとってこの映画が許しがたいものであることはわかる。わかるが、既にマンガで見たことを忠実にアニメ化することに何ほどの意味があるのか、とも思う。

 オレが楽しみにお邪魔させていただいてるサイトがあるのだけど、そこで"童夢"の実写映画版が見たいというお話が出たことがあった。正直いってオレはそんなもの見たくないのだ。壊す覚悟なしにただマンガのイメージを忠実にスクリーンに再現した映画であったなら、という条件つきだけど。メディアが違う以上、アプローチも違ってなきゃウソだ。コミックの"童夢"の(良くも悪しくも)先入観をぶち壊す映画づくりをやるなら認める、単にマンガをなぞった実写映画なんぞは見たくない。

 やるならいったん壊したほうがいい。壊して、再構成を試みるアプローチが失敗であったとするなら、それはそれで納得行くし、なぜ失敗だったのかを考えることには意味があると思うけど、そのアプローチ自体を否定するのはよろしくない。面白くなかったことと、手塚のエッセンスを無視したことを同一視して批判してはいけないと思うんです。

 そのうえで、大友克洋&りんたろうの"メトロポリス"が面白くない、って意見には、賛成せざるを得ないのですけどね(^^;)

2001/6/9

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