ファンタジーを疑え

 いくつかの本の感想文のなかで書いてるんだけど、個人的に世の中にあまりヒロイック(あるいはスウォード&スウォーサリィ)・ファンタジーが氾濫し、もてはやされる傾向ってのはよろしくないと考えている。とりわけSFとの対比のなかでその事を考えるのだけれど、そのキモってのは、SFが前を向いた文学であるのに対して、ファンタジーって後ろを向いた文学であるように感じられてしまうからだったりする。非常に乱暴な定義づけかもしれないけれど、どんな形であれ未来に目を向けて、見たことのないビジョンを提供するSFに対して、ファンタジーがやってることって、"こうあって欲しい"過去を作り出し、そのなかで"こうであって欲しい"キャラクタが"こうして欲しい"活躍を繰り広げる様子を(往々にして、長々と)見せるファンタジーのあり方って、なんていうか、「そりゃ気持ちいいかもしれないけど、それだけでええの?」って気になっちゃうんだな。

 もちろんファンタジーの中にもいい作品はたくさんある。マキリップの「妖女サイベルの呼び声」とか「イルスの竪琴」のシリーズとか、言うまでもなく超ビッグネームであるトールキンの「指輪物語」、グウィンの「ゲド戦記」とか、押さえておくべき名作もたくさんあると思うんだけど、それでもこの手のファンタジーの野放図な氾濫ぶりは、これでええのやろかとつい思ってしまうんですわ。

 理由はいくつかあるんだけど、まず、これらのヒロイック・ファンタジーの多くがアメリカ製であることって、結構大きい問題なんではないかと思う。とても若く、古くからの伝承という物をもたない(だって国自体の歴史が200年そこそこなんだから)アメリカの人びとが、これらの"数千年の昔にあったかもしれない"系の、神話のようなものを常に求めている、って心情にはある程度理解できるモノを感じるんだけど(だからといって作られた過去のぬくぬくに浸っててええんかい、とは思うけどな)、そういうアメリカ人の都合とは別のところで、一応(人によっては)2600年を超える(事になってる)歴史を持ってる日本人が、他所の国の、しかもいいとこ取りの神話体系をなぜにほいほいと受け入れて耽溺できるのか、って部分には、少々不可解な物をずっと感じてきてたりしたんである。

 まあすぐに出せる答えもいくつかある(仮想コスプレの面白さとか、そういう部分っすね)けど、基本的にその、後ろ向きにお耽美な世界の受けの良さみたいな物に対する漠然とした胡散臭さと不可解さみたいなものがあって、意識的にファンタジー作品は読まないようにしてきてたんだけど、とりあえずこちらが感じてる不可解さをある程度晴らしてくれる文章に遭遇した。月刊"モデルグラフィックス"誌の01/2月1日号の富野由悠季氏のロング・インタビュー。ちなみにこの号のメイン特集は、バイストン・ウェル。この特集のなかで、インタビューに答える富野氏のコメントが良かった。

 はい。すごく簡単に言ってしまえば、ファンタジーの持っている自己治癒的な、癒し的な機能っていうのが、今の時代では「あってはいけないこと」なんじゃないかと思ったんです。なぜなら、これだけ出版物が増え、映画とかテレビとかビデオ以下、大量にいろんな媒体でファンタジー的な物が見られるようになってしまったでしょう?で、それだけファンタジー的な物が氾濫しているのと同時に、現実生活というのがものすごくクリーンに、清潔で無菌状態になって、妄想がいっぱい飛ばせるような時代になってしまいました。世の中や日常の生活の中に危険がなくなってしまったんです。

 日常の生活の中に危険がなくなった人間が、なおかつファンタジーを手に入れるということはどういうことなのか?つまり、無菌状態で危険のなくなった世の中がじつはすでにファンタジーなんだから、その上にファンタジーを供給し、そして消費するっていうことは、自己治癒にならないと感じたんです。

 さらに、

 はい、明日死ぬかもしれないという不安、移動ひとつ取っても山越えが一日かかるつらさ……そういう生活空間で生きている人びとが、現世から"おとぎ話"に一瞬身を投じるのと、現代の我々が眺めるファンタジーというのとでは、あり方の構造が根本的に違うんです。

 話はこの後さらに"ファンタジーの持つ妄想の危険性"ってなテーマに流れていくんだけど、ここで言われてることって、突き詰めて考えて見るならば、"満ち足りているのにさらに癒しを求める事を、正当なことなんだとみんなで認めあう"事にほかならないと思うんだけど。富野氏はそこにある種の胡散臭さを嗅ぎ取ったのだと思うのだけど(違うかな)どうだろう。ファンタジーがもてはやされる傾向っていうのは、必要もないのにことさら"癒し"というキイ・ワードをうれしがる事にほかならないと思うのだけれどな。で、それってちっとも前向きじゃないと思うんだけどなぁ。

 オレなんて基本的に後ろ向きな人間なんだけど、そんなオレでも昨今のファンタジーの氾濫って、度を越した後ろ向きぶりなんじゃないかと思ってしまう。人間、後ろ向いた分だけ前も見ないといけないと思うんだけどどうだろう。前見て歩くのはしんどいけど、後ろ向きで歩いてる限り、気は楽だけど新しい発見や驚きには出会えないよね。自戒を込めつつそんなことを思ったりする世紀末。

 文中の引用は大日本絵画発行・月刊モデルグラフィックス誌、01/02/1号からのものです

2000/12/26

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