怪獣使いと少年

ウルトラマンの作家たち

表紙

切通理作 著
カバーイラスト 近藤ゆたか
カバーデザイン HOLON
宝島社文庫
ISBN4-7966-1838-4 \667(税別)

 初期"ウルトラ"シリーズの脚本家として名作、問題作を次々と世に送り出した4人の脚本家、金城哲夫、佐々木守、上原正三、市川森一。彼らが"ウルトラ"に託した思いとはなんだったのか。脚本から見えてくる4人の優れた脚本家の思想と、その思想がかかわった時代を読み解く本。

 金城、上原、市川の三人に関しては、別冊宝島の"怪獣学・入門"でも一度触れられており、沖縄と日本、という民族的な問題を根底に抱えた金城、上原、キリスト教の教えと自分の家庭環境から発生した問題意識を鋭く作品に込める市川、という評論はなかなか読み応えがあったことを覚えています。あれも切通さんの文章ではなかったかな。さらにここにもう一人、佐々木守さんを加え、それぞれを「永遠の」という頭に続けて「境界人」(金城)「傍観者」(佐々木)「異邦人」(上原)「浮遊者」(市川)と位置づけたのが本書。

 子供むけエンタティンメントという制約のなかで、ウルトラマンというヒーローの物語のなかで、ではヒーローとは何なのか、ヒーローの拠って立つところとは何なのかを考えたときに、4人の出した結論から、彼らがウルトラと関った世相を絡めた四者四様の人間観を切り出してみる試み、といえますか。丹念に資料にあたり、インタビュウをこなして造りあげられた労作であり、全体の論調には同じくウルトラに幼少のみぎりに出会ったワタシとしても、非常に共感を覚えます。四人の、それぞれの作風を実際の作品を検証しながら考察していくなかで、「うんうん、アレはたしかにそういうことだったと言えるかもしれない。」的な、非常に情緒的な共感が得られるんですね。

 ただ、何といったらいいのか、非常に共感できる反面でこの本は一体何について書かれた本なのだろう、という気分が頭をもたげてくるのが不思議なわけでして、ここでちょっと困ってしまう。四人の作家たちがそれぞれに抱えた内面的な問題が、彼らの作品に反映され、それが凡百の子供向け娯楽番組にあるまじき問題意識を秘めた作品を産み出すもとになった、というのはわかる。それに接することができたわれわれは幸運であった、ともすなおに思える。しかーし。

 二十代後半、いや、もう三十代になろうとしている<エエ歳した大人>が、世間一般から見れば幼稚な、<昔のジャリ番>でしかないものにいつまでもこだわっている。「素直な子供の感性を忘れないのはいいことだ」と自己弁護してもだめだ。本当に「素直な子供」だった子は、怪獣やアニメなどじきに卒業し、友だちをたくさんつくり、恋をし、素直に大人になっているのだ。本当は素直な子供の感性などは持てなかったからこそ、いつまでも大人になれず、怪獣などにこだわるのだ。いかに軽い遊びのフリをしようと、また逆に知的な言葉で飾ってみせようと、そこにこだわっている以上、みんな気持ち悪い<おとなこども>でしかない。僕たちはそれをいっぺん認めなきゃならないんじゃないか。

 と冒頭で述べながら、実はその後本書で語られる内容というのは、その<おとなこども>であることの自己弁護に終始してはおりますまいか。<おとなこども>であることが、他の<素直な大人>であること以上に実は実りのあるものである、という結論にもって行きたいのではないか。それでは一昔前のニューアカにおける"スキゾ"宣言とたいして変わらんのではないか。んでその行き着く先は自然消滅でしかないように見えるんだけどな。本書の解説で、永遠の自己否定の運動をやめない「彼岸の左翼」なる表現がなされておりましたが、「左翼」なるもの自体がやがて否定されていく流れを、切通評論もたどるのではないかという気がいたします。ワタシが一連の切通評論に感じる近親憎悪的な意味のなさって、そのへんに理由があるのかも。面白いんですけどねえ(^^;)

00/5/28

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