「完本・毒蛇」

表紙

小林照幸 著
カバー 三村淳
文春文庫
ISBN4-16-763701-4 \667(税別)

 戦後まだいくらもたたない昭和三十年代初頭、東大付属伝染病研究所試験製造室主任、沢井芳男は東京でハブの血清の製造に従事していた。自らが作り出すハブ血清に絶対の自信を持っていた彼だが、実際にハブ被害に悩まされ続ける奄美大島を視察してきた同僚の医師からは驚くべき知らせがもたらされる。確かにハブ血清はハブに咬まれた患者の死亡率を下げる役に立ってはいるが、ハブ毒による患部の壊死を防ぐことはできていないこと、さらには肝心の血清もその効力に疑問なしとできない部分があると言うのだ。実際に現地に飛び、初めてハブ咬症の実情を目の当たりにした沢井は、それまでの自分の自信が、根拠のない思い込みでしかなかったことを思い知らされる。これが沢井の40年以上に及ぶハブ、そしてさまざまな毒蛇研究の発端となったのだった。

 著者の小林さんは史上最年少の大宅壯一ノンフィクション賞受賞者なんだそうですが、この本も大学在学中に書き上げられ、開高健賞奨励賞を受けた「ある咬症伝」を元にした「毒蛇」とその続編「続・毒蛇」の合本となっています。

 少年時代から生き物に興味を持ち、後、友人の病気から医学を志し、さらに毒蛇の被害に苦しむ人々を救いたいという望みを持ったときに知った沢井芳男という人物に私淑し、ついには強引に弟子入り(笑)してしまったという著者、小林さんの熱意もスゴいものがありますが、彼がそこまで入れ込んでいる本書の主人公、沢井芳男さんという方もまたものスゴい人物ではあると思います。ハブ毒による苦しみのひどさが想像を絶するものであったことを目の当たりにしたとはいえ、そのご現在に至る人生のほとんどを、蛇毒から人命を救うことに捧げてきた沢井さんの半生というのは、たとえば薬害エイズ事件に登場する医学関係者たちとは全く反対の位置にある人物であると思わされます。この人に注目した若者、小林さんもまた大した人物であるといえるでしょうね。

 日本は毒蛇が少ないという恵まれた条件にあるせいか、毒蛇の恐ろしさというものがあまり話題になりませんが、世界有数の毒蛇といわれるハブの被害の恐ろしさを具体的に表現してみせた点、沢井芳男という希有な人物に着目した点で、極めて優れたノンフィクションになっていると思います。限りなく読んで損なし。

 ただし個人的に問題なしとはしません。これは小林さんの問題というよりは、ノンフィクションには必ずつきまとう問題といえると思うのですが、つまり「その言葉は本当にあったのか」ってところ。ノンフィクションとはいえ「物語」ですから、そこにはセリフが存在します。ノンフィクションの場合は実際に取材し、本人からお話を聞くこともあると同時に、さまざまな取材をもとに、著者が自分で「セリフ」に再構成を行うことがあると思うんです。で、今回問題だなあと思えるのは後者。登場人物に、ハブの恐ろしさやそれに対する対策の歴史といったモノを語る役目を小林さんは与えているんですが、(細いことを気にするなといわれそうですけど)一般の人間が、たとえば奄美の伝説的なハブ捕り名人の人生を語るときに、そのいろいろなできごとが発生した年までを立て板に水で語れるのかどうか、って部分、個人的にちと気になりました。もちろん何らかの形で歴史は語られなくてはいけないのですが、その方法論としてこの手法は正しかったのかどうか。昭和三十年初期の会話で、「そこまで語るとお茶を一口飲」むところまで後の取材で果たして完全に記憶は再現できるのか、ってとこです。ホントにしょーもないことなんですが、気になります。他の表現の仕方もあったのではないか。

 とはいえこれを書いたとき小林さんは24才なんですよねぇ。なんでもかんでも文句つけちゃいけない気もしますねえ(^^;)。とりあえずこの方の他の作品も注目してみたいと思うに充分な本ではありました。

00/2/28

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