RESTAURANT NORO の紹介



meiten_osaka.jpg  南地という街は大人の遊び場だった。心斎橋筋のは百年を越す暖簾が数多くあり、伝統の重みが独特の風格をもたらしていた。それがいつの間にか代替わりできず、一軒また一軒と姿を消し、ありふれた商店街に変わり、気がつけば子どもの遊び場になっていた。ヨーロッパ通りといわれた周防町もまた、お金持ちが買物に立ち寄る洒落た通りだったという。
 『乃呂』がこの地に開店したのは高度成長期に歩みだした昭和33年。本格的なレストランは当時ミナミにそう何軒もなかったはず。昭和の御代、ハレの日に子どもらが連れて行ってもらったのはせいぜい百貨店の大食堂どまり。ガラスケースの洋食サンプルに張り付いていた頃、こんな瀟洒なレストランが町場にあったなんて知る由もなかった。さぞ、一張羅を着た坊ちゃん嬢ちゃんが来ていたことだろう。あの当時、大人たちは一様にご飯をフォークの背に押し付けて食べていたっけ。
 初代・野呂伸一(氏)は肥後橋にある、西洋料理の名門『アラスカ』出身。メニューもなくレシピも残さず、お客様の要望を聞いて何でも閃きで作ったそうだ。大阪万博の頃はとにかく景気も良く、お客も一番の食べ盛りだったようで、厚いステーキばかりがよく出た。常連にたまに違うものをと言われ、初代が家族用に仕込んでいた焼肉のタレで即席に肉を焼いて出すと大変喜ばれ、定番「牛肉の網焼き」が生まれた。するとそればかりが出るようにになる。どうも日本人ってのは極端な食性があるようなのだ。
洋食好きとして欠かせないのはデミグラスソースの存在だ。この甘みと苦みとコクのソースは外せない。だが、ヘビーで胃がもたれるのではという心配もあろう。そんな思いを察していたかの如く、「さっぱりとしていて、コクのある料理を作れというのが父の口癖でした」と現在、厨房を守る二代目の太一(さん)。そのためにはズバリ、手をかけるしかない。徹底的に脂肪分を取り除きながら火にかけ続け、野菜の旨みをソースに加え2週間かけて完成。見た目クラッシックな、芳ばしい鳶色のソースは意外とさっぱりとし、またすぐに食べたいと思わせるビーフシチューやタンシチューとなる。初代は晩年までこのソースを気にかけ、仕上げに金漉しを使うとソースが硬い・・・と、馬の毛の毛漉しを使うよう命じていたという。
 食べたことがないと宣うヤングエイジが多いビーフカツレツは、上質の和牛フィレ肉使うだけにパン粉はできるだけ細かく薄くし、油を吸わせずさっぱり仕上げる。よく煮込んで酸味を甘みに変えたトマトソースを合わせる。特製ハンバーグステーキはデミとトマトを半々にブレンドしたソースが決め手。仕上げにかけるソースと半熟の黄身が混じり合い、とろりと流れ出すとビジュアル的にも、もうたまらない。パンやご飯で残らず平らげたいところだ。
 決して敷居の高い店ではない。もう少し食べたいお客さんには「お二人でグラタンを一つお取りになれば」などともすすめるし、請われればカツに合わせてウスターソースも出す。お箸で食べることはもちろん、ご飯、香の物、赤だしだってある。けれど、カレーやパスタ一品でもどうぞというほど大衆的な洋食店ではない。洋食にも季節感をと、フレンチの技法を加えた「乃呂風懐石」なる月替わりの力作が二代目の手によって生まれ、それを心待ちに通い来る年配者がいるのだから、客側も心得ておきたいものだ。できれば前菜からメインへと食べ進めてほしい、ワンランク上の欧風レストランである。

 
あまから手帖 別冊本「大阪名店の凄み」より抜粋。
平成22年秋発売。