スローライフ交通教育の提案

~市場原理主義のオルタナティブの一環として~
齊藤 基雄

1 提案の背景

1-1 高校生向け交通教育をめぐる議論の推移

わが国において従来、高校生向け 交通教育の内容をめぐる議論は、交通安全教育に二輪車・自動車の運転に関する指導を盛り込むことの是非に集中してきた。それは、1970年に愛知県で始ま り、後に1982年、全国高等学校PTA連合会の「全国決議文」によって推進された「三ない運動」(生徒に運転免許を取らせない、バイクを買わせない、運 転させない)が、生徒の意見を反映させることなしに、現行の道路交通法で満16歳以上から認められている二輪免許取得を学校が禁止することを「管理教育」 として問題視する視点にもとづくものである。

「三ない運動」(地域により、「四ない運動」や「四プラス一ない運動」などの名称で実施されてきた)は、創成期の1970~80年代において、高校進学率 が上昇のなか、地域社会(商工会、自治会等)からの暴走族取締りの要請が警察や市町村役場にとどまらず、暴走族となる年齢層の人が多いとされる各高校に対 しても直接向けられるようになったことを背景に、支持層が多かった。
しかし、1980年代半ば以降、国鉄改革を引き金とした地方公共交通の衰退や、若年層のレジャーの多様化などにより、二輪の社会的評価が「暴走族の遊び道 具」といった否定的なものから、「身近な生活の足」とか「健全な旅行手段の一つ」などといった肯定的なものに変わってきたため、同運動は、生徒のみならず 社会各層から「国民皆免許時代に逆行し、若者をクルマ利用から遠ざける悪弊」であるとして、批判を浴びるようになった。

とりわけ、1989~91年のいわゆる「第二次交通戦争」において「三ない運動」は、高校年齢層の二輪車事故を予防する効果を発揮できなかったために、運 動の存在意義が疑われるようになり、代替策として、文部省(現・文部科学省)や総務庁(現・内閣府)から「免許取得を目的とした交通安全教育」の高校授業 への導入が提起されるようになった。
まず文部省は1989年9月、運転免許取得に関する科目の高校正課授業への導入(米国の「運転者教育」や、ドイツの「EMS計画」などを手本として)につ いての検討を発表し、1994年度からは各都道府県で一校ずつの「二輪車研究指定校」制度を開始するなど、高校での二輪教習の実用化研究の推進に当たっ た。

次に総務庁は1993年10月、「免許取得前の若者に対する交通安全教育の在り方に関する検討会」を設置し、免許取得・車両所有に備えた交通安全指導の学校教育への導入の実現に向けた準備体制の具体案を盛り込んだ最終報告書を、1995年3月に発表した。
これらの状況を無視できなくなった全国高等学校PTA連合会は、1997年8月の全国大会において、「三ない運動」を「全国決議文」から「宣言文」に格下 げするとともに、「地域の実態・学校の実情から二輪車の安全運転に関する効果的な指導のあり方について検討し、交通安全指導を計画的に行うようにつとめ る」との文言を明記することによって、生徒に対する二輪利用の可否についての判断を各校PTAに委ねることとなったため、「三ない運動」の全国運動として の機能は事実上、消滅した。

こうした動きを受けて文部省は、1998年の警察庁「交通安全教育指針」(平成10年9月国家公安委員会告示第15号/免許取得のための交通安全教育を各 高校に要求)と、1999年の総務庁の諮問機関「免許取得前の若者に対する交通安全教育の推進方策に関する検討会」の報告書による同様の要求とに沿った形 で、2000年4月から、取り扱い範囲を四輪にまで広げた新しいモデル校制度を、一都道府県で複数校以上に拡大し、今日に至っている。

1-2 交通教育のもたらす経済思想的側面

「三ない運動」か「免許取得を目的とした交通安全教育」か、といった二者択一的な議論は、一見して単に生徒を交通事故に遭わせない方法、すなわち交通の安全面のみを焦点とするものとして解釈される傾向が強い。
確かに、多くの高校にみられる、自分の子供の“暴走族化”を阻止したい親の集合がPTAを媒体として学校側に圧力をかけ、当事者の一方である生徒に直接か つ十分な説明責任を果たさずに、教師を介して「三ない」校則の導入を進めさせてきた事例は、純粋な教育学的視点でみる限り、自ら能動的に思考する主体とし ての生徒の役割を否定したという意味で問題といえる。

しかし、これと対極に位置づけられている「免許取得を目的とした交通安全教育」に問題がないかどうかを考えた場合、その影響の及ぶ領域が単なる「生徒」の「安全」のみにとどまらないことに注意すべきである。
それは、「免許取得を目的とした交通安全教育」が、従来「交通弱者」としてみなされてきた高校生に「免許取得」と「車両所有」を方向づける作用をもたらす 場合、現状では瀕死の状態にありながらも、高校生の通学需要で辛うじて生き長らえている公共交通網の壊滅により、安全面のみならず、環境やエネルギーと いった面でも負荷の高い、モータリゼーション交通社会の後戻り不能な方向での絶対化が懸念されるからである。

実は、「免許取得を目的とした交通安全教育」は、「三ない運動」を「管理教育」として問題視している教育学者や交通心理学者のみならず、市場原理を尊重する視点からモータリゼーションの拡大を支持する交通経済学者からも、強力にバックアップされてきた。
このような傾向は半世紀前の1955年、戦後交通経済学の重鎮とされる故・今野源八郎氏の著書『道路交通政策』(東京大学出版会)に始まる。今野氏はこの 本において、自家用車の所有を「各自が最も能率的に活動し得る交通条件」であると肯定的に評価した上で、このような条件を実現するために、米国の一部諸州 のように、高校授業での自動車教習をわが国にも導入することの必要性を唱えている(同書p.125)。

時代をかなり下って1990年代になると、旧国鉄の初代新幹線総局営業部長で交通評論家の角本良平氏は、JR東日本広報誌『JR EAST』1992年12月号において、地方はもちろん、都市部においても自動車やバイクによる通学を推進すべきであると主張している。
さらにこの手の主張は、山口大学の教授である澤喜司郎氏によって、バイクが高校生の通学手段として活用可能であるにもかかわらず、「三ない運動」がその障壁となっているのは問題であるという論調に発展する。

これらの主張に共通するのは、個人による自動車(二輪も含む)所有が容易となった現在、採算のとりにくい公共交通を通学のためといえども、行政から補助金を割いてまで残すべきではないとした上で、自らの交通手段を自らの責任において維持せよという思想である。

「交通行為」を価格理論における需要・供給の視点で捉えた場合、利用客数(需要量)と車両等の定員(供給量)が常に一致しない運命にある公共交通は、経済 学がいうところの「資源配分を歪めがちな」体系である。これにくらべて自家用交通手段は、運転労働の自己生産を通じて、交通トリップの需要と供給が即時的 に一致する「無駄のない」体系と解釈されるため、今日の市場原理主義のもとでは、モータリゼーションの拡大ないしは維持に寄与する諸政策が一方的に「善」 とされる。

だから、「免許取得を目的とした交通安全教育」は、上にあげた傾向の交通経済論者によって、人々の交通手段の入手を、より市場メカニズムに従順な体系に移行するための必須の手段として位置づけられるわけである。

1-3 市場原理主義のオルタナティブの必要性

しかし、市場メカニズムによる需 給均衡を唯一「望ましい」とする経済効率的な視点によって支えられてきたモータリゼーション交通体系の拡大は、道路交通による死傷、道路公害、二酸化炭素 排出増による地球温暖化問題、公共交通(とりわけ鉄道)に比較した場合の単位輸送量あたりエネルギー消費量の高さなど、健康上・環境上のリスクを多面的に もたらしている。
このようなリスクにもかかわらず、自動車利用のシェアが減らない要因として、次の特徴を列挙できる。

まず、他のエネルギー資源にくらべて、採掘から販売に至るまでの流通が容易である石油製品の特性に支えられ、車両の大量生産や道路網の拡充により、自家用車利用の交通コストが、他の交通手段や過去の時代よりも相対的に安くなったことがあげられる。

とりわけ今日、原付車両の低廉化や中古車市場の発達により、自家用車両の購入・維持費がバスの定期代よりも年間計算で安くなるという現象が各地で珍しくな くなったため、本来であれば公共交通の存続に有利とみられる「高齢社会」の現在にもかかわらず、鉄道やバスの利用者が各地で減る傾向にある。これは、高齢 層における運転免許取得率の上昇を背景に、低所得層においてもクルマ依存が浸透しつつあることをうかがわせる。

次に、道路整備の進展と自家用車普及率の上昇によって、よほどの辺地でない限り、鉄道やバスに日常交通を多く依存していた時代にくらべて、住宅や事業所の 立地が自由になったため、「郊外化」すなわち土地利用の無秩序拡散(スプロール化)が全国各地で起こり、こうした傾向が人々のクルマ利用への依存をさらに 高めている。駅前中心市街地の衰退と郊外型ショッピングセンターの隆盛は、まさにその象徴である。

これは単に交通分野における輸送サービスやインフラの需給問題にとどまらず、土地・原材料・労働力といった生産要素の調達から最終商品の売買に至る、交通 需要が依って立つところの、モノやサービスの取引一般が、公共交通の路線網や運行時間・本数に制約されずに、クルマという媒体を通じて「オン・デマンド」 かつ「ジャスト・イン・タイム」で可能となることを意味する。
かくして、モノやサービスの需要の個別散発化が進展すればするほど、交通トリップがふえるため、クルマ利用によって生じる環境負荷の増大は続くことになる。

これらの問題を考慮した場合、道路網の歩車分離化の推進、免許取得教育の早期化、低公害・低燃費車の普及といった個別リスク縮減策には、おのずから限界が 生じる。生命・環境・エネルギー問題への配慮といった方向で人間社会の永続性を捉えるならば、モータリゼーションへの依存の拡大を必然的に招く市場原理主 義の見直しは、避けて通れないであろう。

2 「スローライフ交通教育」の提案

2-1「スローライフ交通教育」の意味

筆者は、以上にあげた市場原理主義への画一化がもたらすであろう、生命や環境への軽視傾向を問題とする立場から、「免許取得を目的とした交通安全教育」が実質的に、生徒に対し免許取得・車両所有を推奨ないしは強制する役割をもたらし得る点を危惧している。

一方、「三ない運動」についても、結果としてそれが通学手段としての公共交通機関の存続に寄与できたゆえに、少なくとも全国的な環境負荷の増大が多少、抑 制できている点は肯定的に評価できるものの、当事者である生徒・教師・親の三者間の合意形成を無視して、理由説明なしの杓子定規で「禁止」を押しつける手 法では、将来的に持続性を期待することができない。

交通手段の選択からその安全な利用、将来の交通政策やまちづくり・むらづくりにおける高校生の参加機会の拡大を考慮するならば、「三ない運動」もバイクに 「乗せる」指導も、同類の「管理教育」として問題となる。同時に、免許取得・車両所有が教育学者の多くのいうように「自己決定権」であるならば、自らの意 志で免許を取得しないのも、立派な「自己決定権」である。

現代の交通社会がいかにモータリゼーション中心といえども、クルマやその運転に関する生徒の興味・適性は本来、ひとりひとり異なるはずである。そうした差 異を無視したまま、「交通安全教育の強化の必要性」を口実に、学校教育において免許取得や車両所有への「便宜」を一律的に図る方向での指導は、思想・信条 の自由への抵触はもとより、真に「安全」に寄与できるであろうか。
そうした視点に立つ場合、学校が生徒の二輪車利用に関して立ち入る範囲は、近隣住民の安全や環境への配慮という理由を全生徒に十分に説明した上で、通学利 用の禁止(または制限)は維持するとして、原則的に課外での利用に関する校則の適用は外し、免許取得者本人(および家族)が自らの責任において、地元警察 署および市町村交通安全部署の主催する二輪技能講習会の類に出席するといった方向に、変えられるべきであろう。

以上を踏まえて筆者は、知識の押しつけや詰め込みを極力伴わない方法により、生徒ひとりひとりが能動的に、交通手段との向き合い方や、交通を発生させてい る社会的・経済的要因などを考えることを通じて、その結果、サステナビリティ(人間社会の持続性)の視点から、生命・環境・エネルギーに負荷をかけない交 通体系の存立を可能にするまちづくり・むらづくりへの合意形成、そしてこれを満たす暮らし方に関する情報の伝達に寄与し得る「スローライフ交通教育」を提 案したい。

当教育では、「スローライフ」の意味を、市場原理主義の追求する「オン・デマンド」や「ジャスト・イン・タイム」の対義語として位置づけている。

昨今は、「生きる力」と称して、市場原理主義下でのひとりひとりの経済的自立を促す教育(例えば、クルマの運転のみならず、義務教育段階からの株式投資実 習の導入など)の企画検討が盛んになりつつあるが、「スローライフ交通教育」は、この類とは異なり、「助け合い」や「支え合い」を基調とする交通社会なら びに地域づくりを追求するものである。そのため、自由競争や経済的自立、過度の自己責任論への順応を行政から強制されない権利としての「人権教育」の側面 を併せもつ。

ここ数年、「スローライフ」を冠した食品・雑貨・工業製品が目立ってきているが、本教育は、個別的な特定商品の宣伝を目的とするものではない。ついでなが ら、最近はLOHAS(ロハス/Lifestyles Of Health And Sustainability)という用語により、健康や環境への負荷が少ないと称する商品を、より多く流通させようという動きが米国のマーケティング筋 から出てきているが、商品の「生産」や「流通」自体が量的増加の方向性をもって一人歩きすると、結局は原材料調達から最終商品の売買に至るまでのエネル ギー消費を増大させることにもつながり得るので、その是非について、批判的な視野も取り込んで議論できるようにしたい。

2-2 「スローライフ交通教育」の領域横断性

従来、学校教育、とりわけここで中心的に論じる高校教育において、交通に関する領域は、交通安全については保健体育科や生活指導、そして交通手段の存立やこれを支えている産業構造については地歴科や公民科といったように、互いに連携することなしに扱われてきた。これに対して「スローライフ交通教育」は、交通とそれを支える暮らしに対する生徒の多面的かつ能動的な思考を促すため、その構築にあたり、個別の各教科(科目)において習得される知識の領域横断的相互連携を発揮すべく、「総合的な学習の時間」での実践を軸とする。
筆者は、「総合的な学習の時間」で扱う当教育について、次の四つの側面を領域横断的に有するものと考える。

●環境教育

単体としての自動車排出ガスの種類とその人体への影響。地球温暖化物質とその環境影響。代替燃料や燃料電池、太陽電池等の化学特性とその問題点。有害物質規制の緩い下請工業国での部品生産のもたらす環境問題や労働問題。その他。

●健康教育

自家用車と営業車の競合などを背景とした、営業車の低運賃競争がもたらす交通労働者の過重労働。病院の郊外移転がもたらす、クルマ(二輪も含む)による通院しか選べない状況は「健康増進」に逆行しないか?など。

●消費者教育

個人・世帯レベルにおける目先の「安い」「便利」よりも、「健康や環境によいもの」を社会成員の合意で支えることの重要性。そのような「健康」や「環境」の見極め方。その他。

●納税者教育

税金の使い道に関わる意思決定としての政治参加の方法。「行政改革」が叫ばれているが、集団で資金を拠出し合わなければ維持できない、「健康」や「環境」の改善に寄与するインフラやサービスを、目先の節税欲のために簡単に葬り去ってよいのか?など。

以上の四側面を相互連携させることによって、現代モータリゼーションのもたらす諸問題を、生徒ひとりひとりが立体的に理解できるものと考えられる。そのような立体的理解を助けるスキルとして、次のリテラシーの習得と活用を提起したい。

■メディアリテラシー

マスメディアや行政広報などの情報を、一方的に鵜呑みにしない。自ら主体的な解釈力の育成。但し、「常識を疑うこと」が一人歩きして曲解が度を越すと、全ての他者に対する不信癖がつき、コミュニケーションに障害をきたすことも想定できるので、バランス感覚が必要。

■統計リテラシー

確率・統計の読み方を多面的に知ることで、書き手の主張を的確に読み取ることができるとともに、使い方を習得することで、発表者自身の説得力向上に役立つ。

2-3 各教科(科目)の具体的活用案

上に述べた方向での「スローライフ交通教育」の実践のためには、既存の各教科(科目)間の領域横断化が必要となる。しかしながら、現実には学校での教育のテーマが「交通」のみではないのが明白であるため、各教科(科目)の教員間を共通させた形での「交通教育」という枠組みでの相互協力は、容易でないと考えられる。

そこで、「総合的な学習の時間」でテーマとなった課題に取り組むには、これに必要な知識やスキルを、生徒が自主的に各教科(科目)での学習を通じて得るととともに、課題に即した各教科(科目)間の知識連携を自ら組み立てるといった方法が想定される。

つまり、これまでの各教科(科目)での学習では、受験勉強に象徴されるような「知識の詰め込み」という手法が中心とされてきたが、「総合的な学習の時間」で「交通」というテーマに関心をもった生徒は、各教科(科目)の知識を「(詰め込みとしての)目的」ではなく、「(自らの関心にもとづく学習を高めるための)手段」として獲得し、活用する意欲を高めるであろう。

「スローライフ交通教育」の掲げる課題に取り組むために、基礎知識として活用できる各教科(科目)の学習内容は、現行「高等学校学習指導要領」の掲げる「普通教育」の場合、次のものが考えられる。

●国語科

国語総合や現代文では、ディベートやワークショップに必要な話し方・聞き方、法令文や政策文を読む際の解釈方法。古典では、人や物の分配の歴史を知るために利用する原書や、文語体時代の公文書の読み方など。

●地歴科

地理では、交通が依拠している地域の特性(生活・産業・文化・自然)や、地域間の結びつき(貿易や流通に果たす交通の役割)など。歴史(世界史・日本史)では、交通を発生させてきた人や物の分配の変遷、交通をとりまく諸産業の歩みなど。

●公民科

生命の尊厳、交通需要と交通政策を規定する経済の仕組み、まちづくり等における政治参加のあり方、公害防止・環境保全、人権の意味とその尊重など。

●数学科

交通死傷や交通公害など、交通リスクの推移を解釈・分析するための確率・統計。

●理科

物理では、車両の運動特性や運動エネルギーなど。
化学では、自動車の製造や走行に関わって発生する化学物質の特性など。
生物では、交通公害や地球温暖化による生態系への影響(人体や食糧農作物への疫病被害等)など。
地学では、交通公害や地球温暖化による気象への影響(諸災害や農作物疫病の原因となる気象変動)など。

●保健体育科

クルマへの依存を減らす健康な体づくり。交通サービスの維持に関わる人々の安全・健康の実態など。

●外国語

諸外国の交通事情を知るための、インターネットの現地語ホームページの読み方や、電子メールでの質問に必要な文章の書き方など。

●家庭科

交通のもつ福祉的側面(交通のバリアフリーなど)。交通需要を生み出す衣・食・住の現状。子どもや高齢者にとって安心できるまちづくり・むらづくりの内容。健康や環境にあまり負荷のかからない交通手段・インフラを選択する消費行動など。

●情報科

「スローライフ交通教育」全般で利用するPCソフトやインターネットの使い方。インターネットを利用した高校間交流(例えば、地域再生で注目されている場所の高校とか、廃線寸前の公共交通機関を地元に抱えている高校など)。

2-4 「スローライフ交通教育」の目指す交通社会

「スローライフ交通教育」のキー ワードは、「共生の交通社会」である。現在、社会集団としての生活において、どうしてもクルマに依存せざるを得ない領域や地域が多いのは事実であるとして も、クルマの運転における人々の能力や適性が個別に異なる以上、運転できる人ができない人やしたくない人を不当に差別したり、あるいは体調不良の運転者に 運転労働を無理強いしたりするのではなく、これらを個人のもつ特性の違いとして相互に尊重し合うことを通じて、これを満たす交通政策や土地政策を、社会成 員ひとりひとりの自覚にもとづく合意形成によって成就できるように方向づけることで、クルマの利用に一面的に依存せずに済むコミュニティの生成を導くの が、このキーワードの狙いである。

このキーワードによって、道路交通事業者における過重な運転労働をもたらす一連の「規制緩和」策や、自家用車利用の強制につながる路線バス廃止の「届出 制」への緩和、公共交通の衰退を不可逆的にもたらす土地利用規制の緩和策などの国土交通政策を行政当局から不当に押しつけられない権利を尊重するための 「人権教育」としての役割も、先にあげた「総合的な学習の時間」における四つの側面を相互につなぐ要素として一層、浮き彫りにすることができる。

なお、現時点において、過疎地等の既に公共交通網が縮小されてしまった地域では、自家用車(二輪も含む)に依存せざるを得ない立場から、「スローライフ交通教育」の導入は極めて困難であるとの指摘もある。

このような指摘に対しては、次の対処が可能であると考えられる。これから公共交通の廃止が進められようとしている地域の高校の場合は「公共交通に頼れず、 クルマに依存せざるを得ない立場の拡大をどうやって抑制していくのか」(例えば、廃線問題を抱えている高校との情報交換・連携など)を、そして既に公共交 通が全面的に廃止されてしまった地域の高校の場合は「過疎地に公共交通を復活させるには、どのようなプログラムで地域再生を進めていくか」(例えば、民間 バス事業者撤退後の市町村代行バスがこれから導入されようとしている地域の高校との連携など)を、焦点とすることができる。

現実に、自家用車(二輪も含む)の利用について、「安全や環境の問題を理由にその可否を論じるのは、非常に迷惑である」として切実な捉え方をする向きは、 とりわけ農山漁村を中心に極めて多い。これらの地域において、モータリゼーションを急進的に抑制するのは、確かに無謀であろう。しかし、その「切実」は、 これまでの農山漁村にとどまらず、大都市圏にまで幅広く連鎖・拡大している。例えば、ちょっとした郊外へ出かけるにも「クルマがなければ不便な」地域が拡 大すればするほど、都市住民においても、公共交通を利用する機会は激減する。以上のような「切実」の連鎖とその拡大を考えた場合、「クルマの利用は、仕方 がない」という発想をこのまま温存・集積させれば、モータリゼーションによってもたらされるリスクは、ますます拡大するであろう。
そこで、「スローライフ交通教育」は、拙速な結果を求めるのではなく、たとえ遅い速度であっても、現在の市場原理社会という経済の歯車の向きを確実に逆転 させ、地道な取り組みではあるが、50年、100年単位を見据えた息の長い戦略の継続・拡大により、「結果として交通社会が変わった」といえるプログラム を構築する。

モノやサービスが欲しくなったとき、どこに住んでいても、いつでも簡単に手に入る社会を維持するために、今後も「国民皆免許」体制によるモータリゼーショ ン拡大を続けるのか、それとも多少の不便は覚悟しながらも、生命や環境の尊厳がより重視される方向でクルマ一辺倒社会に代わる交通機関・交通施設を社会成 員の合意で選ぶのか。「スローライフ交通教育」は、生徒ひとりひとりが自ら、交通を通して「ひとの群れ方・暮らし方」を考えるものである。

(2006年4月5日発行 会報7号所収)

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